2018年5月18日金曜日

カンヌ映画祭、滑稽さと礼儀、ある視点

「Ayami、明日の夜何してる!」
仲の良い女友達ジュリアが興奮して電話をかけてきた。明日は日曜日、たいてい日曜日の夜というのは静かに家にいるものだ。特になんにも予定はないと答えると、イェーイと電話先で奇声をあげている。たった今日本人監督の新作「万引き家族」のカンヌ映画祭ガラ上映の招待状をもらったので一緒に行こうというのである。カンヌ映画祭では他の映画祭と違って、一般向けにチケットを発売しておらず、招待状かプレスパスなどがない限り観ることはできないらしい。

カンヌ映画祭については、年に一度開催される有名な国際的映画祭であること、スター(この言い回し...)がレッドカーペットを練り歩くことはもちろん知っている。最高勲章パルムドールを受賞した映画は友達と話題にして、興味が湧けば見に行く。けれどもわたしは実のところ今の今までそれ以上とくに大きな思い入れがなかった。隣町だというのに観光でさえ訪れたことがない。それでも、好きな監督の最新映画をしかも監督や出演している人たちと同じ空間で鑑賞できるということはわたしにとって大きな大きな興奮だ。もしも樹木希林が来たら最高!!


「もちろんドレスコードあり。Tenue correcte exigée (正装必須)。男性はSmoking(喫煙服:タキシード)、noeud pap(蝶ネクタイ)必須。エレガントな格好していかなければならないよ。Ayami、何着ていけばいいの!!」ジュリアが電話先で悲痛な声をあげている。
ジュリアの叫びのとおり、何を着て行こうか迷う。大阪にいた頃はその頃の仕事柄もあり、着飾って出かける機会がふんだんにあったのだけれど、それもとうの昔のこと。今は完全にジーンズとスニーカー生活である。ニースでは今まで一回も履く機会がなかった裏ソールが赤いパンプスをぜひ履いていけと、シリルが押してくるw 日本に居たころはこういう助言の役目はうちの祖母だったけれど、今はシリルが担っている 笑
ひとえに正装といってどのレベルのドレスコードなのか。カンヌ映画祭のドレスコードは厳格らしい。夜のガラ上映には取材のための報道陣も正装が必須。男性が蝶ネクタイってことは本気のイブニングドレスを着て行ったほうがいいのか。いやいや、スターでもあるまいしただ映画を鑑賞するだけなのに浮くのやいやだし...

ひとしきり考えた結果、ロングドレスはスターにまかせるとして、デコルテが開いたデザインの白シャツ、アルベールデザインの黒のミニスカート、ラメ入りのタイツ、それにタキシードジャケットを羽織っていくことにした。そしてシリルゴリ押しの黒パンプス。久しぶりのモノトーンコーディネート。くしゃくしゃだよ、とアイロンが下手なわたしの代わりにシリルが白シャツにアイロンをかけてくれる。ミニスカートでも大丈夫か一瞬不安がよぎったが、スターでもミニドレスを着ている人もいるし、というここでスターを引き合いにだす勝手ないい訳でいざ向かう。



現地に付き、招待状を手に列を並ぶ。同じように列に並んでいる周囲の人を観察してみると、男性陣はタキシードを着ている人と普通のスーツの人が半々ぐらい、蝶ネクタイが多い。見るからに若い学生の男の子グループもいて、その子たちは普通の棒ネクタイだ。女性はというと、思っていたよりも案外カジュアルなことに驚く。もちろんイブニングドレスを着ている人たちもいる。けれど、上品なワンピース、星付きレストランで食事というような装いの人たちも多い。実は自分のことは棚に上げて、なんとなく全体的に上品さがかける感じに少しがっかりした。イブニングドレスを着ているにもかかわらず、そのドレスは見るからに化繊、派手な原色ばかりが目立ち、なんだか下品でチープな印象。ワンピースの上に普段着の紺色のトレンチコートを羽織っている人もいる。と思えば、わたしたちと同じ席に座る招待客の女性は、結婚式の花嫁が着るような、もしくは舞踏会にでも出席するかのようなふわふわの裾の長いドレスを来ている。「主役でもないのにやり過ぎだね」的な周りのささやき声が流れていた。とても素敵なドレスだけれど、少し気合いが入り過ぎているかもしれない。
そして何よりもわたしを落ち込ませたのは、下着の線が原色の化繊のドレスに浮いている女性が多いことだった。ドレスアップすることとは自分が目立つより何よりも、まずは「下品ではないこと」というのが必須ではないのか。
先ほどの若い男の子たちのひとりはスエードの茶色のカジュアルシューズを履いていて、セキュリティの人に、「その靴は正装ではありません。本当なら許可できませんよ。今夜だけ特別に通します。」と注意を受けていた。男性の正装は女性と違って基準がわかりやすいだけに厳しいようだ。

ジュリアとあれやこれやと話ながら列で待ち、いよいよ入場という段階になって、入場のためにレッドカーペットを歩かなければいけないことを知る。なぜわたしたちがレッドカーペットを!!ジュリアも知らなかった。わたしたちの座る席はそこを歩いて入場するシートだったのだ。シリルがせっかくアイロンをあて直してくれた白シャツにはまたシワができているし、ジュリアと喋りすぎて口紅だって落ちてるかもしれない。まさかあの上を歩かないといけないなんて!




もうここまで来て、知りませんでした、別の入り口から通してくださいというわけにもいかない。はい行って、みたいな感じでレッドカーペットの脇に通される。
シャツがしわくちゃでも口紅が剥がれ落ちていても、とりあえずわたしなんて誰も見てない!と考えを改め、とりあえず背筋だけは伸ばして少なくともパンプスだけは綺麗に見えるようにだけを念頭において歩いた。ジュリアの腰に手を回し、アジア人とヨーロッパ人のレズビアンカップル風に。

ふと少し前を見ると、わたしたちの前を歩いている招待客の男女グループが「我こそはセレブリテなり」というように(ただのわたしの勝手なアフレコ)、階段の最上階で360度に歩き周り手を振っている。別の招待客の若い女性はイブニングドレスの裾を片手でまくりあげ、これもまた360度にポーズを決めている。そしてカメラのフラッシュ。わたしはそれらを見て、薄っすらと何か得体の知れない感覚を覚えた。レッドカーペットのど真ん中、途方に暮れるような感覚。
...この世界は一体なんだ。

ある視点

映画祭の仕組みは、ガラ上映会に招待されている観客がカーペット上をまず歩き、先に上映会場に入場する。そして最後に監督や出演者がカーペット上を歩き、先に会場内で着席している招待客が彼らが入ってくるのを迎えるというものである。このレッドカーペットは上映映画毎に新しいものに引き直される。すなわち1日3回お色直しされているのだ。

上映会場内のスクリーンには監督や出演者たちがレッドカーペットを歩いて入場してくる様子が映し出されている。かつての24時間テレビの芸能人のマラソンのように(今もまだある?)、そのままカメラとともに会場内に入ってくるのだ。

拍手とともに監督たちが迎えられ、22:30過ぎ、静かに映画が始まった。

「万引き家族」はとてもよい映画だった。終わると一斉に拍手が響き渡った。自然に立ち上がってしまう。会場を見渡すと全員が立ち上がり拍手をしている。スタンディングオベーション。監督や出演者たちは日本のおじぎを繰り返している。会話もなくただただ拍手だけが鳴り響き、それは情熱と感動の拍手というよりも、映画を通してわたしたちが共有した何か家族のような何か暖かいものを作者へ送り、そしてそれを一緒に共有するための拍手のように感じた。とても暖かな空間だった。

下をのぞくと監督たちがいる。

翌日、その夜の一部始終とそしてわたしが感じたことをシリルに話した。「招待客が主役でもないのにレッドカーペットを歩く意味がわからない。何者でもない人たちがレッドカーペットで得意げにしている様子と、周りにずらりと囲む報道陣、そしてわたし自身、違和感とある種の滑稽さを感じた。」というわたしに、シリルは苦笑しながら
「まあ日常で何度もする経験ではないわけだし、そのタピ・ルージュ(赤いカーペット)の上は演劇の舞台みたいなもんなんだから、その人たちみたいにそこで演じるのをめいいっぱい楽しむのもひとつだよね。まあそこを歩くからって実際に何者かになったように勘違いしていしまうのは滑稽だと思うけど。」

そして続けた。「僕は招待客がレッドカーペットを歩く意味はあると思うよ。フランスでは伝統的に礼儀を大事にするところがある。監督や出演者よりも会場に先に入るということは監督たちに花を持たせるということ以外に意味があって、大事なお客様を一番始めに扱うという表現になるんだ。レディファーストみたいにね。だってその招待客がコンペションの中でその映画を初めて見ることになるんだから。その招待客の反応も判定のひとつになるんだよ。途中退席した客がどのくらいいたか、拍手はどんな態度で送られていたか、スタンディングオベーションがあったらそれは何分間、どんな風に送られていたか、すべてが判定要素なんだ。その人たちに敬意を表す意味で招待客もレッドカーペットを歩くんだよ。もちろん盛り上げるショービジネス的な演出要素も多いにあるけどね w まあ出番のなかったあのパンプスをおろす機会になっただけでも君にとってはcoolなことじゃない?」

カップル風に。レッドカーペット上はセルフィ禁止w

そうか、わたしがあの赤いカーペットを招待客として歩くということには多少なりとも意味があったのかもしれないのか。そんなことなら、礼儀をもっと重んじるべきだったのかもしれない...。大きな舞台装置の一部。世界の政治的な意図も見え隠れする作品のラインナップ、役割を担う映画の祭典。大衆とセレブリテ。レッドカーペット上で感じた独特の空気に対する違和感はやはりぬぐいきれないけれど...

とまあ、いろいろ感じたり考えたりすることが多かったカンヌ映画祭初体験。ありがたく招待客として席をいただいたひとりの鑑賞者として、心から映画を楽しむことができたことと、あんな風に監督や出演者本人たちと一体の空間が味わえたことは何よりの経験だった。しかも樹木希林♡!!

翌日、前夜の万引き家族のスタンディングオベーションは約9分間であったことがインターネット上の記事に幾つか載っていた。"Un Certain Regard"(ある視点部門)に選出されているベルギーの「Girl」という作品は、涙を浮かべながらの観客によるスタンディングオベーションが約15分間続いたらしい。

発表が待ち遠しい。ジーンズとコンバースの日常に戻りながら。

愛しい日々の連続を♡


2018年1月7日日曜日

再開、エレガンス考2018

男友達に誘われたカウントダウンパーティに顔を出した後、友達が働くJOYAのパーティに参加する。もうその二件の梯子の時点でシャンパンとワインでかなり出来上がっている。そのままみんなで連れ立って美術館併設カフェのエレクトロイベントになだれ込む。ガンガンの音楽にテンションは最高潮に上がりもみくちゃになりながらも人と人との間の隙間で踊る。他人の汗とタバコの匂いも酔って鈍った嗅覚ではさほど気にならずにいられる。午前三時、「もう帰るよー」と周りの友達たちに引きずられるように会場を出る。あのまま朝まで踊り続けていたかった。アパートに帰り着き、シリルとふたりベッドにどさり。

久しぶりに踊り狂う

初日の出どころではない。新しい年に一日(ついたち)の朝があったかさえ記憶にない。どしどしSNSにあげられている知人友人の立派な新年の挨拶と抱負を、夕刻、西の空へと沈み始めた初日の出とともに、ソファに寝転がりながら読む。そして、愕然とする。知人友人のこの立派な様と比べてわたしは一体…


そしてソファに深く沈みながら初日の出が完全に沈むまで考えた。わたしの今年の抱負は何にしようか。

そしてうにゃうにゃ考えながら、ネットを流し見しながらなんとなく辿り着いた、ある人の書いたブログの文章を読んで、思わずほほうーと目を見開いた。その文章の中に怒りのエネルギーが充満している。書いてる本人の内側にある怒りを発散させてるような文章。読んでいて怒りの湯気がもうもうと浮き上がってきそうな気配。
そういえばわたしもフランスに住み始めた時、こんな文章を書いていたなとふと思う。日本のあり方に憤りを感じていた時期だったので、内容自体は日本のあり様に疑問を問いかけるようなものだった気がするが、内容自体が問題ではない。文章に怒りが溢れ出しているということは、書いてる本人の内側が怒りでいっぱいってことだ。怒りやら悲しみはひとつの起爆剤になり得るからそれをうまく使うのはひとつの手だけれど、人の目の前におおっ広げに見せる、すなわち他人に向けて発散させるのはエレガントではない。
ということを改めて認識した。

久しぶりのこの10cmの感覚に調子に乗りに乗る

フランスに住み始めて二年と半年。最近やっと肩肘張らずに生活できるようになってきて、ふと気がつくと言葉の面やら日常生活やらふいに直面する問題への対処やら、随分と色んな面で楽になっているのに気づく。

そしてふと、クリスマスのバカンス中、義母とふたりでお茶を飲みながら「自分が恐れているもの」について話していた時のことが蘇った。きっと自分はコントロールを失うことが恐いんだと思うと答えたわたしに義母が言った言葉。
「この世のすべては不変で相対的に存在し、起こり得る出来事は本当は誰にもコントロールはできないのよ。コントロールしようと必死になればなるほど、世界の成り立ちに逆らうってことだから自分で自分を不幸せにしてしまうのよ。」


怒りにせよ、過剰な自意識にせよ、他人に醜いものをぶつけるのはエゴに操縦されている証拠だ。不変に逆らうとガチガチに固まって動けなくなる。それはエレガントな行為とは真逆の状態。

踊り狂って迎えた2018年。お節ははおろか、お雑煮さえも作らずに日本人らしいこともまったくできず始まってしまった。それでも楽しくて幸せな始まりであることには違いなく、もう取り繕っても仕方がない。立派じゃなくても適当だってなんだって、時々毒づいたって皮肉めいたっていいから、とりあえずここはひとつ、ガチガチにこわばらないで、"肩の力を抜いたエレガンス"。今年はこれを研究課題にしてみようかと思う。

2018年もめいいっぱいの愛をこめて。
愛しい日々の連続を♡


2017年8月22日火曜日

月と浮遊感

あんたが山登り?!
山登りをしたとSNSに投稿した写真を見た、昔のわたしを知っている友人たちの揃いも揃っての同じリアクションのコメントに苦笑する。しかも結構な率でコメントの最後に泣きながら笑っている顔の絵文字がついている。笑われるのはいいけど、泣かれるのはいやだw


十年前のわたしは、自然なんてものに全く興味がなかった。7cm以上のヒールの無い履物は靴だと認めなかったし(本気で)、実際に、学生の頃履きつぶしたコンバース以外スニーカーを持っていなかった。中途半端に日焼けして黄色くなるなんてダサい、考えられないと、高校生の頃から徹底的にアンチ日焼けを約十五年くらい守り通していたし、そんなわたしを知っている旧友たちにとっては、今さら山登りなんて何があいつに起こったのだろうと、泣き笑いは自然なリアクションなのかもしれない。あの頃から考えると、わたしは180度といっていいほど変化している。


カフェを経営する友人とワインを飲んでいた時、カフェを売りに出そうと思っているんだとぽつりと言った。その店はわたしにとっては特に思い入れのあるカフェで、それを聞いた時全身に悲しさが込み上げてきた。同じようにその話を聞いた周りの人たちは「そうか...仕方ないね。」と落ち着いた反応をしている。「そんなのすごく悲しい!」とその友人の言葉をひとりだけ受け入れられないわたしは、周りの友人たちやそのカフェを売りに出す張本人にさえ、揃って「セラヴィ。仕方ないよ。」となだめられる。もういい年だというのに、ただひとり大人の中でぐずっている子供みたいだ。


初めての山登り、昔のわたしが見たら卒倒しそうな「運動靴」を履いて、岩しかない頂上に文字通り這いつくばって登った。足元の危うさと高さに足がすくむ思いだった。頂上の風を気持ちいいと感じるのもつかの間、無事に降りられるのかと早速心配になる。ちらりと隣を見ると、昨日まで連日の仕事でぐったりしていたくせにCyrilは水を得た魚、いや、解き放たれたばかりの猿のように嬉々として危うい足場を飛び跳ねながら登り降りしている。自然に囲まれて生まれ育った彼にとっては、ここは「恐さ」とは程遠い場所なのだ。夫婦なのにわたしたちはこうも違うのだと妙な気持ちになった。


あれだけ楽しみにしていた夏まっ盛りを迎えたというのに、途端にわたしは「お願い、お願いだから夏終わらないで」なんていう考えが止まらなくなる。日本にいた時はこんな風に思うことなんてなかったのに、あまりにも南仏の夏が好きになって、執着し始めている。今持っているものを失うのが恐くて先のことを心配して憂鬱になる。これじゃあ何のためにヨガをやっているのかw 全く学びが反映していない。Cyrilといえば、全く執着とは無縁の人で、いつだって足りていることを知っている彼の姿勢はいつもクールで、そんな彼を時々うらめしく思う。

ヴァニラみたいな無花果みたいな甘いいい香りがする花

「わたし海で泳ぐの大好きだし、ここの夏が大好きなんだけどさ、夏を満喫しているうちになんだか無償に秋が恋しくなるの。そうこうしているうちに秋が来て、すごくワクワクするのよ。」と、仲の良い生粋のニソワ(ニースで生まれ育った人のこと)の女友達が海辺でわたしに話した。ここで生まれ育った彼女たちは、新しいブティックやらレストランにももちろん目ざといのだけれど、それ以上に、昔からの行きつけのチーズ屋、食材店、洋品店なんかを大事にしていて、それを嬉しそうにひとつずつ丁寧にわたしに紹介してくれる。「口から耳へ」という言葉を揃って口にし、この小さいニースの街で、いいものは口コミで広がっていくのよと教えてくれる。


ふらっと立ち寄った夏のソルドで、気づいてみれば買い足したのは結局秋物ばかり。なんだかんだ洋服に関しては昔から秋服が大好きで、ゲンキンだけれども、こればっかりは秋の到来を楽しみにさせる。180度変わったと思う反面、1度さえも狂っていない部分も確かにある。

仲のいい友達の誕生日のホームパーティ、パーティも中盤に差し掛かると、主催の友人がジャズからエレクトロに音楽を切り替え最大に鳴響かせ始める。みんながサロンに集まりだす。重低音をガンガンに感じて踊りまくる。こういうのだったらわたしはそれこそ水を得た魚のようになれる。全く恐くない。超楽しい。またちらりと隣を見るとわたしほど魚度は強くないにしても、Cyrilも楽しそうに踊っている。セビアーン(楽しいねー)なんて言ってくる。なんだこいつは。これも楽しんでる。

この日友人宅の真新しい白い壁に赤ワインをバシャッとやってしまう

仲のいい友人たちがバカンスに出てしまって、街の中も地元の人より観光客の割合が多い8月後半。味気ない街を歩いている途中ふとなんだかさみしくなって、道の真ん中で時差も考えず日本の親友にスカイプをしてみる。もちろん応答するわけがない。パリの親友にも連絡する。彼女ももれなくバカンス中だ。それからいいタイミングで女友達からの誘があって飲みに出る。今まで知らなかった分かり合える部分があることを知ってお互い嬉しくなって、帰り道、ひとりなんだかほっとした気分になる。


誰もいなくなった夜の海で、背泳ぎをする。パンパンに膨れあがった満月手前の月があまりにも美しくて、泳ぐのも忘れてただただ見惚れる。なんだかんだ言って、わたしはこの海に浮かぶ感じが一番好きかもしれない、なんてふと思う。昔すり切れるくらいよく聞いたフィッシュマンズのナイトクルージングが、この海の浮遊感にシンクロして頭の中でふいに鳴り始める。ここの夏を堪能しつつも次に来る季節を喜んで受け入れていく秘訣を、いつかわたしも誰かに教えてあげられる日がくればいいな、なんて波に揺られながら考える。

愛しい日々の連続を♡




2017年7月20日木曜日

剥き出しの感覚、光の隙間、海

無性に海が恋しくなる。朝起きて顔を洗い終わった瞬間から、「海の中に入ること」、それだけしか考えていない時がある。そんな時のわたしはいつもの寝起きの自分とは見違えるほど無駄のない動きで、心を散らさず一心に海に行く準備を整える。体をテキパキ動かしているけれど、頭も心ももうすでに水の中に半分潜っている。
ワンピースを脱ぎ、ビーチサンダルも脱ぎ、脇目も振らずまっしぐらに海岸に下りる。ザブザブと水の中を進む。そしてスルリと体を水の中に滑り込ませる。ヒヤリとした水に全身を撫でられていく感覚。ゆっくり、ゆっくりと前へ進む。横切る魚の群れを目で追う。水に体を同化させていく。そう、この。この瞬間。感情のもやもやが一瞬にして海の中に溶け出す。海に着くまでの道、歩きながらあれだけ止まらなかった思考のスパイラルも一瞬にしてスーっと消えていく。


フランスで個人事業主の申請手続きをし始めてからすでに2ヶ月半が経とうとしている。フランスに住み始め、想像もしなかったひょんなことからヴィーガンのスウィーツを作る仕事を始めることになり、本格的に事業として登録することになった。
半年ほど情報集めやら資格取得に時間を費やし、やっとこさ事業主としての申請手続きを始めたのが2ヶ月半前である。いやはやここはフランス。もちろんすいすいと物事が進むはずがなく、今になっても手続きは完全に終わっていない状態。

わたしの作るスウィーツは、動物性食品は一切使わず、卵も乳製品も使わず、そのうえ熱を加える調理をしない。法律&決まりごと王国のフランスで、わたしが作るこのヴィーガンローケーキはまだまだ”何やら正体不明のもの”。
それでなくてもこの国で手続き系をしようとするとうんざりするほどの時間と事柄が待ち構えているのだけど、それに加えて「新しいこと」に関してはその倍以上の時間とエネルギーがかかるのだ。手続きの担当者から、わたしの作るお菓子はこの地方ではわたしが初めて事業として登録するのだと聞き、なんでまた外国でこんなことに手を出したのだろうかと自嘲気味になった。疲れることこの上ない。振り回され過ぎて一週間以上寝込んだほど。ここでは書けない汚いフランス語を何度口にしたかわからないw とはいえ、完全に終わったと言えないけれど、とりあえず手続きはなんとか無事収束に向かっている。


落ち込んだ時、とっさにパリに住むフランス人の親友に電話をする。彼女と話すとパリ特有の皮肉を交えた会話感が戻ってくるので、シニカルな会話のやり取りを楽しんでいるうちに気持ちが少し楽になる。それからニースに住む仲のいい女友達にも話を聞いてもらう。結局こんな時にはいつもわたしは女友達が必要になる。自分のフランス語が上達すればするほど、彼女たちとの会話も深みと味わいが増す。これはわたしのフランス語への最大のモチベーションで、それなら、もう少し勉強しよう、という気になる。


みんな結構いい歳なのにキッズみたいな仲間たち

仲のいい男友達たちが働くカフェのキッチンに出向き、愚痴を聞いてもらい、音楽の話をして、オーブンから出て来たばっかりのフランボワーズのタルトをひときれぱくりと口に入れてもらう。

どっさりと色とりどりの有機トマトを買い込んで、どしどし切って大きなボウルに放り込む。バジルやミントなんかのその時あるハーブを手でちぎって、同じ店で買った独特の風味のシシリア産のオリーブオイルをかける。ただ、それだけ。左手にボウルを抱え、右手で持ったフォークでどんどん口に入れてゆく。トマトの色と甘みがどんどん体に入ってゆく。
そうこうするうちに、少しずつ元気が戻ってくる。



先日、自分の住んでいるアパート界隈の担当の郵便配達員の人と道端で小さな言い合いをした。相手があまりにも理不尽なことを言うので、詰め寄って文句を言った。その人が立ち去ったあとは、「まったく有り得んな、あいつ...」とため息をついたあと、ふと、なんだか笑いがこみ上げた。詰め寄って顔近づけて人に文句を言うことなんて、今まで日本ではしたことなかったなと思う。場面を客観的に想像したら、漫画みたいだw こんなこと深く考えもしないで行動するなんて、なんだかんだいって、この国の環境に体が馴染んできたのかもしれない。

知り合いのアーティストの倉庫を改装したアトリエ、がとても素敵

そして街のショーウィンドウに映った自分の姿を見て思わず立ち止まる。いったいわたしはナニジンになっていくのだろうか。
「え?!まだあやみちゃんここ来て二年も経ってへんの?!馴染みすぎやろー(笑)!」
なんて、つい二、三日前に同じ関西出身のニースに住む友人に笑われたばかりだ。いらだたされることは日常茶飯事、言葉にしようのない不甲斐なさや憤りを感じることも多いとはいえ、それでもどこか自分にしっくりくる部分がこの国にはあり、日本に背を向けて思い切り深呼吸できる自分もいる。「他人の言葉をあてにしない、真に受け過ぎない」をモットーにしさえすれば、この国では案外近道や抜け道を見つけて目的地に辿りつけるということもだんだん分かってきた。けれども、わたしはやはり日本人であるし、この国では外国人だ。

まるで家族みたいに大切な人たち(ってか実家族1名)

何かを感じすぎたり、起きた出来事に説明や意味を求め過ぎたり、心もとないふわふわした気持ちになったり、なんで?なんで?なんで?と疑問符で頭がいっぱいになったり、時々自分がまた思春期に戻ってしまったような、頭と体と心がバラバラになってしまったようなそんな心もとなさを感じることがある。長年共にしてきた皮膚を剥いで、何もかも剥き出しで歩いているような、そしてまた新たに皮膚を再生させるような、感覚。
一旦頭と体と心をバラバラにして、組み立て直す。大人になってから外国に住むということはそういう作業なしには進めないのかもしれない。


まるで街の全体を光だけで包めることを誇示したいかのような南仏の太陽の光を体全体に浴びながら、広場に咲き誇るネムノキの鮮やかなピンクの花を見上げる。静かに目を瞑る。
そしてまた海へ向かう。

愛しい日々の連続を。




2017年4月30日日曜日

神経症的会話の味わい

こんな風に、完璧な構図と音楽とユーモアだけで世界を成り立たせられたら。
なんて、久しぶりにジャック・タチの映画を見ながらぼーっとそんなことを考えた。新月の雨の夜。

仲のよい女友達からの電話が鳴る。
「ねえ、もし時間があったら今からちょっとだけ会わない?」

彼女とわたしは、お互い時間を見つけては喋り続けている。もちろん女子特有のたわいもない話や読んだ本やら見た映画の話も盛り込むのだけれど、それ以外に語り合うほとんどの会話は、詳細な心理描写、それは時にはウッディ・アレンもきっと辟易するんじゃないかと思うくらいの執拗さと細かさで成り立っている。


遅めの朝のカフェを飲みながら、昼食をとりながら、公園を歩きながら、道路を横切りながら、本屋の棚の間を縫い歩きながら、市場で野菜をよりながら、ブティックのオープニングパーティに向かう途中、レイトショーの帰り、カフェのテラスで、芝生の真ん中で、美容室の待合室で、彼女のアパルトマンの生成り色のソファで、キッチンに立ちながら、バーのカウンターに腰かけながら。

生姜入りのそれは美味しいラビオリを頬張りながら、酸味が強過ぎるカフェにふたりして文句を言いながら、電話で莓を齧りながら、2杯目のボーヌの赤ワインを飲み干しながら、映画のあとのほろ苦いタブレットショコラを齧りながら。
 
わたしたちの話はつきない。

ニースにはめずらしい色合い

今まで夫としか話合えなかった、物事の細かいひだについてや、長年折りたたんだまま開いてみようとしていなかった様々な自分の感情や気持ちの移り変わり、人への接し方、自分のコンプレックスやそれに対する考え方、家族との関係、他人の持つ癖に対応するその仕方、単語の本当の意味、それぞれ自分のかかりつけのPsy(心理カウンセラー)の見解の仕方、それらひとつひとつを誰かと話合えるということは、とても興味深い。

いろいろな状況や様々な感情のひだをただただすべてひとまとめにして、「本当はみんな基本いい人だから」とか、「何はともあれ他人に感謝しましょう」とか、そういうことがもちろん助けになるような時期もあるのだろうけれど、ただそれだけですべての問題を乗り切ってしまおうとすることは、残念ながら根本的な解決策にはならない。日めくりカレンダーに書かれた格言だけでは掬いきれない粒の細かな事柄が日々たくさんある。


フランスへ来てからというもの、自分の口から発せられ、自分の耳に入ってくる不協和音入りの自分のフランス語のメロディーに、わたしは日々イライラさせられている。時々自分の発しているその音がどうしてもフランス語に聞こえず、耳を塞ぎたくなる。このこともわたしの部分的な神経質さに拍車をかけているのかもしれない。自分が発する音が自分をイライラさせるなんて、笑いたくなるほど堪え難い。それこそ、完璧な雑音で彩られるタチの世界に入り込みたくなる。そのフラストレーションを、ほとんどアクセントがないとても聞き取りやすい彼女のフランス語を耳にしながらだと、自分の耳をごまかして少しは中和させながら会話ができる。これは彼女といてとても楽な気分になる理由のひとつなのかもしれない。

猫を助けたくて仕事をほっぽり出し

理想と現実のズレ。外と内の対比。完璧に見える塀の向こう。混沌した内側。衝突を仰ぐ世界。完璧な構図への憧れを手放した瞬間に訪れる、滑稽さに宿る優しい光。
自分の生まれ育った場所ではない国に根を下ろし始めて初めて気づくことの数々。人との関係の中で存在するコード(規範)の違い。 育ってきた環境も言葉も何もかも異なる人たち。そして違いを認めてお互いの今を慈しむ感覚。

30半ばも過ぎて、また「友人とは」なんて考えている。
恋愛とはまた違う、それでいて同じように果てしなくかけがえのない領域に属する人々、その関係。

友人たちが巻き煙草のために使うのは祖国の古いお札


鳥に憧れているベッドシーツがバタバタとはためく風の強い、それでいてどこまでも青い空の朝、かもめの輪郭をあやふやにして混ぜ込んだ灰色の空の憂鬱な午後、金色の光がキラキラ揺れる海辺の夕方、通りに人が溢れる興奮した音だらけの夜。冬と春、春と夏の間でいったりきたり彷徨うこの時期、ぐるぐるとそのすべてを巻き込んで飛ばしてしまおうとする風が時折り吹く。

相変わらずわたしたちの話はつきない。

愛しい日々の連続を♡



2017年3月19日日曜日

久しぶりにがくんと落ち込んで、それからぺこりと起き上がったこと

フランスで生活をしていて、時々、いや、かなりの確率で、自分が子供みたいに感じることがある。ひとりで完璧に何かをすることができない、自分の言いたいことの半分ぐらいしか人に伝えることができない、細かなニュアンスをうまく伝えられない。そんな時、自分が今まで社会の中でいっちょまえに生きてきたという幻想を抱いているだけの、ただ年だけを重ねた身体とのサイズに違和感を感じている子供のような、自分が奇妙な生き物になったように感じて愕然とする。


久しぶりにがくんと落ち込んだ出来事があった。結局のところすべては自分の無防備さと甘さ、自分が的確にフランス語で相手に意思を伝えられなかったことなどが原因で起こったことだ。ぐるぐる頭からその出来事が離れず、久しぶりに眠れない夜を過ごした。その問題を乗り越えるためにはきちんとしたフランス語で相手に自分の考えていることをくっきりはっきり伝えることが必要で、自分の態度で、言葉できちんと自分の意思を表すこと、わかりやすく明確に要点を手短にフランス語で伝えることの重要さを学んだ。
そのことに対して自分はどう思っているのか、どう感じているのか、どんな考えを持っているのか、自分はどうしたいのか、それからどんな人たちと付き合っていきたいのか、そういうことが今回の出来事でとてもクリアになった。けっこう2、3日久しぶりに落ち込んだわけだけど、結果それはわたしにとっては必要な経験で、とても勉強になった。


それから、この一連の出来事を話せて、しかも親身になって聞いてくれて一緒に憤ってくれたりする友達が周りにいることのありがたさも再認識した。いつも感情表現豊かなわたしの周りのラテン人たちが、こういう時、大げさに慰めたりせずただただ優しい感情と論理的な視点と冷静な大人の見解を持ってわたしの話を聞いてくれるということに、小さな感動を覚えた。「その悔しさ覚えておくんだよ、それを糧にするんだよ!負けんなよ!」的な体育会系がけっこう苦手なわたしは、その大人な優しさにしみじみ癒される。


その起こった一連の出来事を相談した友達のひとりと、そしてCyrilは別々に、けれども同じことをわたしに言った。「賢さというのは心の温かさを持ってこそ賢さと言うんだよ。心のないずる賢さや相手に恥をかかせるような態度、攻撃的な態度、口先だけの会話、いろんなことを後ろに隠しながら繋ぐものなんて、ただの大きなエゴの塊から生まれたものでしかない。ビジネスだって友情関係だって、そういうエゴの持ち主とどう付き合うかはいつだって自分が決めていけることだよ。」


日本にいた時の何年間か、エゴがうずまく世界で仕事をしてさんざんへとへとになった。とてもよい経験だったし、そこから得たものは大きいけれど、何よりもそれぞれのエゴを全面に出しながら密接に関わりあう関係はもう懲り懲りだ。何より自分のエゴと向き合うことで精一杯なのでw、他人のそれに付き合うのはできればもう避けたい。



それにしても、今回、起きた問題をクリアするために、相手にきちんと自分の意見を伝えるために、改めてフランス語に向き合ったわけだけれど、やっぱり自分はこの言語が好きだなと感じた。話せば話すほど増す増す好きになっていく。日常生活の上でこれほど意味のない能力はないのではないかと何十年もの間常々思ってきた、小さい時に習得した絶対音感のせいで、いや、おかげでというべきか、日々、一句一句自分がフランス語を発する度、自分の発音とネイティヴの発音の違いが気になって気になって頭を掻きむしりたくなる衝動に駆られるぐらいイライラさせられている。自分の発音の不協和音にイーッとなる。のだけれど、それでも自分はこの言語が好きだとすごく思うのは、フランス語が奏でる音の美しさのせいか。
最近仲の良い3歳の可愛いわたしの友達は、大人の話す言葉できちんと文章を組み立て、フランス語を話す。彼女の発音はもちろん、語彙力、文法力にはもうわたしはすでに負けている。人にきちんとした発音できちんとした文法で何かを伝えることは、大事なことだ。言語をきちんと自分のものにすることで、社会の中で少しずつ大人になっていく...いけたらいいなあw

愛しい日々の連続を♡



2017年2月6日月曜日

蘇る記憶、緑の世界

ある瞬間に突然、強烈に強い光のようなものに身体全体を奪われる、何か遠い昔のことと先の未来のことがぐわんと一瞬にして身体の中で入り混ざり、異様に頭がすっきりする、そんな感覚になることが、過去に一度あった。
そして先日、ある場所に一歩入った瞬間にまた、それが起こった。


古い瓶に貼られたラベル、書かれた植物の名前をそっと指先でなぞる。
スポイドからとろり、とろりと垂れる花のエキス。押しつぶしてしまわないように、乾いた葉たちをそろりと手のひらで掬う。ハーブを丁寧にすり潰す。目を瞑る。立ち昇る香りをゆっくり吸い込む。

身体を知る。自然に触れる。宇宙との繋がりを認識する。
蘇る記憶の欠片をスプーンで掬う。月の光を数滴とろりと垂らす。
小さな古い扉。首からさげたペンダント。鍵穴の埃を払い、そっとそれを差し込む。
月の光と緑のうたの世界。緑の指が誘う、書物との密会。


例の強くてそれでいて優しい光。それはその扉を開けた瞬間だった。

”月の香りを感じたり、黒色の官能を選んだり、揺れるスカートで現実を少し覆って、ひとりにやりと匂いに潜む秘密の記憶を楽しむ。アーモンドを少し齧る。言い訳の赤色を愛する指でぬぐってもらう。お湯の中に体を沈めて、耳までそっと入れる。目を閉じる。ろうそくの光が滲む水の色を味わう。揺れるリズムに身を委ねる。”

✳︎ずっと書けていなかったこと、「ホメオパシーのこと」はここからどうぞ✳︎

愛しい日々の連続を♡

色の旋律
Blue:冬の裾の色
Violet:紫のニュアンス
Entre Rose et Rouge:前髪から宇宙まで
Rainbow:魔女の色彩
Rouge : 赤の分量