2014年6月18日水曜日

寝る、食べる、それから...


外が晴れていたり、いつもより暖かかったり、風が気持ち良かったり、そういう日の朝、午後、または夕方、はたまた夜、わたしと恋人はよく外に出て散歩する。そして歩きながら、とにかくぺちゃくちゃいろんなことを話す。例えば彼の友達の赤ちゃんの2歳児が半端なくデカいこと、 ウクライナとEUのこと、この間食べた料理の驚きのまずさのこと、ツツジの蜜の吸い方のこと、フランスの移民たちのこと、魔法の力のこと、エトセトラ、エトセトラ...




とにかくいろんなことを話しながら歩くので、目的地を通りすぎていたり、同じところをぐるぐる回っていたりする。目的地がなくずーっと歩いていることもある。その途中で ねえお腹すかない?ってことになってレストランに入ることもある。

よく話してよく歩くので、そういう時はお腹がぺこぺこで、席に着く。注文する。料理が運ばれてくる間も、また話す。親友の赤ちゃんに会うのが楽しみでしょうがないこと、 医療に使われているバッハの音楽のこと、その店のワイン棚に貼ってあるメモ書きの漢字のこと、どれも同じにみえる日本のアイドルのこと、女性と男性の好みの違いについてのル・モンドの記事のこと、現代アートと超越性についてのこと、AV男優という仕事とある素敵な画家の知り合いのこと、エトセトラ、エトセトラ...



料理がテーブルに着く。ボナペティといただきますを言い合って、食べ始める。そしてまた話始める。この前菜の野菜は何か、そのとびきり美味しいかくし味について、マルセイユのフガスの美味しさについて、わたしのもちもちした触感が好きじゃないことと前世について、目の前の美味しいソースとこのあいだ家で作ったミートソースについて、エトセトラ、エトセトラ...


デザートもぺろりと食べて、最後にはエスプレッソ。ちょっとだけミルクを入れてもらってカフェ・ノワゼットにしてもらう。イタリアレストランではそれを”マキアート”と言うことも最近覚えた。店員さんを交えてまた話す。食べた料理が美味しかったこと、デザートに使っているリキュールのこと、彼の曾お婆さんが料理に使っていたオレンジの花の水のこと、ごちそさまでした、また来ます。

いっぱいになったお腹を抱えて、さっきの続きはなんだっけと、話しながら歩きはじめる。



...思ってみれば、その帰り道から部屋までの階段も、ドアの鍵を開けている時も、部屋に入ってベランダの窓を開けている時も、ずーっと話をしている。
今改めて考えてみると、ふたりとも散歩は大好きだけど、それとはべつに、話すこと自体が好きみたいだ。

こうやって小さな世界で話していることが、どこか世界の端の方だけでもいいから自由のための何かにつながっていたらいいなと願う。




2014年6月9日月曜日

潜んだ欲望と、変な顔

わたしは、”○○臭い”というのが苦手である。

まず、この”○○臭い”とは何かというと、貧乏臭い、田舎臭い、金持ち臭い、女臭い、男臭いetc ...

貧乏なのはいいけど貧乏臭いのはいやだ、田舎者なのはいいけど田舎臭いのはいやだ、金持ちなのはいいけど金持ち臭いのはいやだ、女とか男なのはいいけど女臭いとか男臭いのはいやだ。あ、お洒落臭いってのもいやだなあ。
とにかく”~臭い”がつくとなんだか、その前につく名詞の存在を必死に隠そうとした結果、却ってそのことを輪にかけて露呈していることを当事者が気づいていない状態  というような、なんかうさんくさい感じをうける。(例外:”ケチ”については、ケチ臭いのもケチも両方いやだ。)

まあとにかく、なぜうさんくさい感じをうけるのかというと、本人の気づいていない欲望が露呈され、しかもそれを本人が気づいていないというところに何か”ハダカの王様”的な一種の愚かさを感じるからではないかなと思う。



わたしのこの”○○臭い”嫌いは、時田秀美くんのお祖父さんの影響である。時田秀美くんとは誰かというと、わたしの大好きな山田詠美の小説『僕は勉ができない』の中に出てくる主人公、17歳の男子高校生のこと。

この本の中で、時田秀美くんのお祖父さんは、こう言い放っている。
”貧乏という試練は甘んじて受けるが、貧乏臭いのはおことわりなのだ。” 『僕は勉教ができない』

この本を初めて読んだ高校生の頃のわたしは、このお祖父さんの台詞を読んで衝撃を受けた。
以来、この”○○臭い”という表現であらわされる事柄や人を注意して観察するようになった。



そして数ヶ月前からハマっている内田樹先生の著書の中の、「知性」についての文章で、知性にも”知性臭い”があり得ることを知った。

”私たちは知性を計量するとき、その人の「真剣さ」や「情報量」や「現場経験」などというものを勘定には入れない。そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準にして判断する。” 『ためらいの倫理学』

知識人と呼ばれる人や、目上(とよばざるを得ない)の人が語る物事の見解には、時々、「う~ん、結局何を言ってるのかわからない。わたしがバカだからかもしれないけど...、でももっとわかるように噛み砕いて説明してくれないだろうか...」というものが多々あるし、それに言葉を羅列しているけれど、彼らが語る見解の中では、その言葉の本当の意味、本当の定義とは正反対、あるいは全く別のものとして使われていたりすることがある。
「真剣さ」や「情報量」や「現場経験」などだけで語られることや、内輪の中でしか通じない言い回しでのみ語ること、自分自身の内を省みていない物の見方や見解は、とても...知性臭い気がする。


知性に限らず、何か物事の本質や真実ようなものを探りそれに近づこうとするとき、それに対する熱意やら情報やら経験値が重要ではなくて、その人がその物事の本質だと思っていること、真実だと思っていることをどれだけ疑っているか。その物事自体に自分が投影している、あるいは紛れ込ませている欲望にどこまで気づけるか、これらこそが必要なのではないかと思う。

だいたいの人は、この自分の”善意に隠れた欲望の存在”を認識していない、もしくは知らないふりをする。
わたしが考えるこの欲望というものは、「物事や人(自分も含む)を自分の意思でコントロールしようとする」もので、わたしは、この欲望の存在に自身が気づくか気づかないかで、その物事は大きく変化するのではないかと思っている。
どこまで自分の善意を疑えるか。

対人関係や社会とか世界の物事の中でも、それぞれがそこに気づけていないから、 ストレスとか暴力とか、人や物事との摩擦が生まれるのではないか、と思っている。
この欲望は、親の子供への愛情の中に、恋人への愛情の中に、あるいは友人に対して、部下に対して、至るところに隠されている。 始末が悪いのは「善意に隠された」という点だ。



そして何を隠そうわたしはこのことに約30年間ほど気づかずに生きてきたのだ。物事や他人と関わりを持ついたるところに、この欲望が潜んでいたことに気づかずに行動していたのだ。そしてあるとき、この欲望の存在に気づいてから、その欲望を認識し、そこから自分を解放する、という作業を何回も何回も繰り返した。そしてその作業を重ねるにつれ、驚くほど心身が安定するようになったのだ。周りの物事も変化した。

内田樹先生は同じ著書の中で、”自分の知性を雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、わたしは好きだ”と言っている。これを読んでから、わたしは内田樹先生を、時田秀美くんの祖父に続いて、わたしのお祖父さんにしようと勝手に決めた。(お祖父さんと呼ぶには若いしダンディーすぎるけれど♡)



そして何十年ぶりに思い出して、久しぶりに『僕は勉強ができない』を読み返してみた。
もうね、最高。
やっぱりこの本には、お祖父さん以外にも痛快な名言が随所にちりばめられている。時田秀美くん17歳、素敵な男子だ。

”ぼくは思うのだ。どんなに成績が良くて、りっぱな事を言えるような人物でも、その人が変な顔で女にもてなかったらずい分と虚しいような気がする。”

"脇山、お前はすごい人間だ。認めるよ。その成績の良さは尋常ではない"
(脇山というのは秀美くんを敵対視しているいけすかないクラス委員長)
"でも、おまえ、女にもてないだろ"

(学年に2,3人はいるとびきり可愛い女の子たちについて)
”彼女たちは、たいてい、清潔感にあふれいて、愛らしい顔をしている。自分の魅力に気付いてないわ、というようなうぶな表情を浮かべながら、磨きたてたうなじを何かの拍子に、ちらりと見せたりする。手を抜いてないなあ。ぼくは、彼女たちを見るたびに、そう心の中で呟く。”

”自分のこと、可愛いって思ってるでしょ。本当はきみ、色々なことを知ってる。人が自分をどう見てるかってことに関してね。”

”ぼくは、人に好かれようと姑息に努力をする人を見ると困っちゃうたちなんだ。香水よりも石鹸の香りが好きな男の方が多いから、そういう香りを漂わせようと目論む女より、自分の好みの強い香水を付けている女の人の方が好きなんだ。”

”他人からの視線、そして、自分自身からの視線。それを受けると、人は必ず媚という毒を結晶させる。毒をいかにして抜いて行くか。”

こんな息子に育てた彼のお母さんも実に爽快でかっこいい人だ。

ちなみに秀美くんの言っている変な顔ってのは、顔の造形を言ってるわけではない。内面とかその人の持っているいい味が全く出ていない、意味のないことに固執してできあがった顔のこと。
自分の真の欲望に気づいていない、つまりは”○○臭い”ってのが滲み出ている顔のことじゃないかしら。

『僕は勉強ができない』いつ読んでもおすすめ。



とにかく、ひとりひとりが自分の欲望に気づいて、それを認めて解放し、それを浄化させていく。つまりは自分自身を心の底から愛することが大切だと思う。
大げさにきこえるかもしれないけれど、人が持つストレスや、世界にはびこっている暴力、潜んでいるその種を少しでも浄化させるのは、そこからだと思う。

2014年6月3日火曜日

矛盾の言い訳

最近ビタミンとか鉄分が不足してるよなーなんて考えて、もともとが単純思考なので、じゃあ毎日朝に果物を食べようかしらと思い立ち、八百屋に出向いた。で、改めて思ったのである。なんて日本は果物の種類が少ないんだろう...もちろん、バナナやキウイ、オレンジやレモンは常時並んでいるんだけど、全部輸入品であって、日本の果物というと今の季節、柑橘類しかほとんどない。少し前は苺がたくさん並んでいたけれど、その季節が終わった今の果物売り場は少し寂しい。しかもフランスに居た頃に比べるとやっぱり断然値段が高い。


で、いろいろ調べて、ビタミン不足と鉄分不足の自分に合いそうなサプリメントを買ってみた。で、飲み始めていて調子も悪くないのだけれど、本当はできればやっぱり食べ物のかたちをしたものから栄養を摂れればいいのにな、と考えてしまう。サプリメントで”補う”のならいいのだけど、野菜とか果物とかを とらずに、薬のようなかたちをしたカプセルや粉末状のものからだけで栄養を摂取することに、少なからず抵抗を感じるのだ。口に入れるものはできるだけ 自分でいいと思えるものを、それから美味しいと味わえるものを選びたい。



で、そんなことを考えていると、先日、ジム友達のイギリス人Gとお茶をしていた時、「最近ジューサーを買ったんだ!」とGが嬉々として話し始めた。高性能のジューサーらしく、普通に買えば3万円近くするらしいが、オークションで半額で手に入れたらしい。毎日八百屋に行っては果物を選び、家に帰ってネットでいろんなレシピを検索していろんな味のジュースを飲むのが今の楽しみらしい。「健康だ!」って感じがするのだそうだ(笑) で、「君にもぜひジューサーライフをおすすめするよ!」とピカっとした笑顔でいい放ち、バイセコーをクルッと方向転換して帰っていった。(G:50代前半)

3万円のジューサーか~。そりゃあ、ジューサーライフ、もちろん取り入れたいけれど、こんなに果物の種類も少なくて値段も高いし、毎日の果物代だけでも馬鹿にならないしな~、なんて考えていた。


なんて考えてながら、シャワーを浴びて、口紅を塗って、家の鍵を持って、さあ友人との待ち合わせに出かけようかと靴を選ぼうとした瞬間に、思った。
この愛すべき靴たちと、毎日の果物代、さてどっちが大事?
 


で、困った!取り乱した!
わたしの世界は大いに矛盾していることに気づいたのだ。

で、”わたしってなんてアンバランスなの!”という思考に陥り(笑)、さっそく夜、散歩をしながら恋人に訴えてみた。

「食べ物のこと気にしたり、資本主義とか物質主義とか消費社会から離れたいとか、そんなこと考えたりしてるくせに、わたし、対ファッションとなると、どーうしても洋服が好きだし、ハイヒールの絶妙な角度とかにやっぱりどーうしても魅了されていて、服を着ることが好きだし、だっさい女の人とか好きじゃない。でも、ファッションの世界って消費社会の象徴みたいなもんでしょ?結局は自分からどうしても消費社会を切り離せないんじゃないかって思ったの!しかもジューサーの値段にはケチ臭いくせに、ルブタンのハイヒールにはそれ相応の価値があるなんて即答してしまうんだけど!わたしこんなにアンバランスでどうしよう!!」と、いっきにまくしたてた。

取り乱しているわたしに彼は「オーMa paubre!」(←”可哀想に...”というような表現)と大げさに言って、わたしの手を繋ぎなおした。
そして苦笑しながら続けた。
「確かにね、ファッションの世界ほど消費で成り立っているところはないと思うけど、でも別にそのファッションの消費世界が好きなんじゃないんでしょ?ただ単にいろんな洋服を着ることが好きなんでしょ?女性だし、自分を綺麗にすることとかお洒落することが悪いとは思えないよ。芸術とか美とかそういうものは人間だけが持っているんだし、素敵なことだと思うよ。着ることだって大切なことだよ。」となぐさめてくれた。

「ところでルブタンの靴っていくらするの?」と訊くので、真実を教えてあげた。彼はピュウと口を鳴らして「それを履いて自転車には乗れないね。」と肩をすくめる。


まあそれはそうか。彼の言う通り、たしかに、べつにわたしは何着も何着も洋服を買うこと自体が好きなわけじゃない。コーディネートを考えて楽しむことが好きなだけだ。流行が好きなわけでもない。昔着ていた”箪笥の中の自然ヴィンテージ”を引っ張り出して楽しむこともできる。お金をかけることだけがお洒落だとは断じて思っていない。

それに素敵な洋服や靴を買えたとしても、自分がそれにちぐはぐなのでは心地がよくない。
” ルブタンを履いて自転車”とか、”プラダのバッグを買うために、ランチはコンビニの納豆巻きだけです♡”とか、”ランバンのワンピースは持ってるけれどそれを着てレストランに一緒に行く最適なボーイフレンドは、居ません”、みたいな、そういうエレガンスさが無いアンバランスさはあまり好きではない。”サプリメントが食事です”みたいになんだか本末転倒な気がするからだ。
どんなに着飾って素敵な靴を履いていても、噂話とか、今の流行とか、男女のすったもんだとか、そういう話しかできないことにもあんまり興味がない。

生きるのにはビタミンが必要なように、芸術とか美しさとかを楽しむことはわたしにとっては本当に大切なことだ。



という考察をして自分を落ち着かせてはみても、毎日の果物代やジューサーにはケチ臭いくせに、ルブタンのハイヒールには「うむ、価値あり!」と相手の顔の前にぐいと親指を立ててその額にめり込ませる勢いに、アンバランスさは大いに否めない(笑)
そんなアンバランスなわたしを受け止めてくれている彼は、
あ~なんて寛容なんでしょう♡  ...ww



恋人になぐさめてもらってようやく平静を取り戻したわたしは、そういえばもう少ししたら桃の季節だな~、なんてやっぱり果物屋さんを覗く。
そんな時に似合うのはルブタンのパンプスでもないし、オールスターのハイカットでもない。羊皮のバレエシューズか、もしくはチープでもいいから素敵な(ヒールの高すぎない)ウェッジソールなんかがいいと思う。それに、大きめのパニエか、もしくはお気に入りのデザインのエコバック(雑誌の付録とか、紀伊国屋のアレは個人的にNG!)が丁度いいなと思う。

自分の中の相反する世界に気づいてしまったけれど、まあそれはそれ、歪んでいないならよしとしよう。
女性の美しさはアンバランスさの上に成り立つこともあるのだから。

なーんて、当分のあいだはこの大きな矛盾の言い訳をぐいと押し通すことにするww
だってやっぱりお洒落をすることはわくわくするし♡