2014年7月8日火曜日

その愛する手の動き

日常の中でのわたしのワクワクすることの時間のひとつに、
”料理を取り分けられるのを待っている間”というのがある。

日本では外食の時、格式高い場所や、コースではない限り、ほとんどが料理をシェアして食べるけれど、わたしは、一緒に食事の席にいる人がお皿に料理を取り分けていくれるのを見るのが好きだ。



”見るのが好き”というのも、わたしは「料理を取り分けること」がへたくそだ。苦手。もちろん料理を大きな皿から別の小さな皿に移すことそれ自体はできるのだけど、”綺麗に” 且つ ”ちょうどいい分量に” 取り分けることができない。わたしが取り分けようものなら、せっかく美しく飾り付けられた料理は見事にぐっちゃぐちゃで、なんとも不公平分配になる。なので、できないことはセンスがないのだとあきらめ、無理してやらないほうがいいと開き直っている。わたしの周りの人たちはそれをよーくご存知でいらっしゃるので、食事の時には何も言わず取り分け担当になってくれる。




もともと料理なんて自分が好きなように好きなだけ食べればいいと思っているけど、自分ができないだけに人に取り分けられるのは大好きなのだ。女友達たちは特に、自然な風を装って(?)、ぺちゃくちゃ喋りながらさっさとバランスよく、彩りよくお皿に盛る。よくもまあ話しながらのくせにそんなに美味しそうに美しく取り分けられるな~、なんていつも感心して、手の動きを観察する。この手を見るのが好きだ。そしてありがたくお皿を受け取る。




で、周りの人たちはみんなわたしに取り分けてくれる。そして”取り分けられ受け取り専門プロ”としてはかねてから思うところがあって、個人的な意見だけど、この「料理の取りわけ」という行為、男女間の食事では男性がやる方がかっこいいと思うのだ。
男性が女性に「料理を取り分ける」方が一種スマートさを感じる。
反対に女性が男性に「料理を取り分けあげている」ところというのは、なんだか母親感がでてしまいなんか所帯じみて見えるし、取り分けられている男の人もなんだか子供じみて見えてしまって格好がよくないので、好きではない。嬉々として男性にチャキチャキ取り分けている女性の姿を見ると、自分は関係ないとは分かっていつつも、なんか恥ずかしい気持ちになってしまう。おばさんくさい。
(もちろん母親が子供に取り分けることは別のはなし。あくまでも大人同士の行為においてのこと。)

ちなみにお酌という行為も大嫌い。大好きな相手にはもちろん気持ちよく意識せずにお茶であろうがビールであろうがワインであろうが注ぐが、仕事場とかなんかよくわからない集まりとかそういう時には、しない。手が使えない人とか子供とかお年寄りにはもちろんするけれど。


男友達に、ダンディーで強面のムッシュ、Tさんというのがいるのだけど、彼は、いつも部下をたくさん引き連れて、普段は料理の取り分けなんて絶対しないのに、ふたりだけで食事に行った時は「よし、俺がしてやるよ。」と言ってちゃんと丁寧に取り分けてくれる。そういう時彼のダンディさは倍増する。かっこいいな~と思いながら、わたしは何もせずその手を見ている。
また別の悪友のYさんは、「女性が料理の取り分けなんてするべきじゃないよ。これは男の仕事だよ。」と言っていつも取り分けてくれる。経歴は少々特殊なものの、彼は生粋の博多生まれだ。

フランスの文化では「料理を取り分ける」ということはレストランではマナー上あんまりしないけれど、それでも日本の取り分け文化を知っているフランス人の男友達Vも自然に取り分けてくれる。今まで書いた男友達は全員20歳近く離れた年上の人たちだけど、年上の男性だけがそういうことができるのかと言うとそうではなくて、10歳離れた超今時若者フランス人のAもちゃんとしてくれる。

もちろん恋人もとても取り分けが上手だ。わたしは料理はしてもやっぱり取り分けはしない。(っつーか綺麗にできない...ww)



そんなわたしでも稀に気まぐれで、同席している人に取り分けして”あげる”こともあるが、そういう時は「いつもやらないわたしがするんだから貴重な機会だからね。」と 超恩着せがましく言って、相手に意味もなくありがたがらせる。そしてできたお皿はやっぱりへたくそなのだ。(だいたい大皿から小皿に移すときに、何か料理のひとかけがテーブルに落ちてしまう。)




なんてどうでもいいことをつらつらと書いてみたのは、ふと携帯の写真を見ていると、この取り分けが苦手なわたしだけに与えられた「なんともワクワクする時間」の写真がけっこう集まっていたので、ただアップしてみたかっただけ。

この愛すべき手のみなさん、いつも感心しながら見つめています。
これからもよろしく♡





2014年7月3日木曜日

身体のことと自由のこと

高校生の頃に読んだ本がきっかけで、心と身体のつながりについてひそかに興味を持ち続けて10年以上になる。大きな病気もしたことがないし、持病もないけれど、小2の頃からの肩こりと、ヒールで立ちっぱなしのアパレル4年を経て3回のぎっくり腰から、整体やらマッサージ、鍼やらとは縁が切れることなく、自分でもいろんな本を読んだり人から聞いたりして、地味に自己研究を続けてきた。
そしてようやく最近になって、身体にとって大切な要ポイントのようなものが自分なりにみえてきた。

あくまでもわたしの感覚からの見解だけれど、病気とその治癒に大きくかかわること、それは「自律神経」と「気の流れ」。
(あとは自律神経に密に関わるものとして「骨盤を整えること」が、女性はとくにだけど、大きいと思う。ホルモンに大きく関わってくるように思う。)

医者でも研究者でもないので、詳細は説明しないし、っつーかできないけれど、その中でも一番大きな要になるものが「気の流れを整えること」じゃないかと思うのだ。



人間や動物、植物、おそらく存在するすべての物質にはそれぞれに”気”というものを持っていると思う。そしておそらく、この”気”というものが、人間の身体と心をつなげているものではないかとわたしは考えている。この”気”の流れが乱れると、身体の感覚と心の感覚が乱れ、バランスが悪くなる。身体と心のバランスの不均衡は今さら言うまでもないけど、大きなストレスになる。
なんとなく自分の感覚だけれど、”気”というのは自分を点にして丸く広がっているような感じで、時空を超える。自分とだけでなく、自分の周りにある対象物とを繋げる役割を持っている。なので、例えば近しい誰かの状況を察知したり、何かを予知したりする感覚というのは、一種気の流れが関係しているのではないかと思う。
さあ、話がなんだかあやしくなってきましたね(笑)(一応明記しておくと、自分教以外に特定の宗教を信じたりしていないし、なんちゃらビジネスとかの類も興味がない。)

でも大切な相手に関する物事はなぜか察知してしまうってこと、めずらしくはないと思う。それは気の流れがその相手と共鳴していることはもちろん、実はその相手との物事自体、自分の内から作り出して、相手を通して自分の中でその物事を再認識する経験をしている、ということなのではないかと思っている。だから、”わかる”のだ。



で、今年に入って、この”気”というものを一層自分の中で大切に考えるようになって、いろいろ本を読んだり人と話をしたりしていたら、ひょんなことから知り合いに気功の先生を紹介された。そしてそこに3ヶ月前ほどから月に1度通っているのだけど、直接身体を触ったり揉んだりしないだけにわかりにくいけれど、でも実際通い始めていろんな症状が和らいでいるのだ。しかも面白いのは、気功に行くことを通して、その自分のバランスが歪んでいる場所や症状の治癒に関連することに自然に出会うのだ。本だったり、または「これが自分の身体に合ってないのかも」って原因のようなものが何故だか突然わかったり。 「気の流れが整う」ということは、そういうことなのかもしれないと実感している。

その気功のお爺さん先生が言うには「自分の中でバランスよく気が流れ出すと、どんどん自分の周りの物事が変化し始めるんです。とても自然に、とてもらく~にね。イメージとしては川の流れに身をまかせて流れるようにすぅ~っと、という感じです。これからもっともっと楽になりますよ~。ほほほほほ~」



実際自分の中で「気の流れ」のことを大切に考えるようになってから、わたしの周りの物事は本当に変化した。とても自然な流れでとても心と身体が楽な状態で、その変化にすっとなじんでいる。自分が望むように。

そして徐々に、自分の中で、”大事なものの取り扱い方”が変わってきた。いや、多分、”大事なものと思ってそれをぎゅっと抱えこもうとしているその自分の姿”を客観的に観察できるようになった、と言う方が正しいのかもしれない。



現実に起こる物事ひとつひとつは、それそのものはニュートラル(中立)なものだと思っている。それに何かしらのポジティブ、またはネガティブな意味をもたせるのは、自分自身の認識なのだと思う。

最近は、なにかに対して悲しんだり怒ったりしている人に接すると、
どうかその目の前に起こっている(と認識している)物事に意味を与えないで、と思う。
どうかその出来事を自分の意思でコントロールしようとしないで、と思う。
なぜなら、その物事自体は自分にとって実際にはなんの意味も持っていないのだから。

何かに固執、もしくは執着するあまりに、周りが見えていないということは本当によくあることで。
たいていの場合、その固執の焦点は、「その誰かを(もしくはその物事)を自分がコントロールしたい」というところにあると思う。たいていそういう時その人は、「人は誰でもが自由で、何事からも束縛されなくてよいもの」ということを忘れている。(”人”に限らず”物事”全般においてそうだと思う。)
分かりやすいところでいうと、例えば、子供の人生を満足するものにしたい...大学とか結婚相手とか?(それは誰にとって?)、恋人を自分の思うようにしたい(じゃあ恋人の意思は?気持ちは?)、お金を手にいれたい(何のために?そもそも、なぜ?)
厳しいかもしれないけれど、自分の”善意に隠された欲望”に目をむけるべきだ。

その相手は、そして周りは、世界は、宇宙は、そして自分は...、想像しているよりも大きいのだ。コントロールしようなんて、本当に意味のないことだと思う。



手放すことだと思う。いかに固執していることを手放すか。
ぎゅっと抱えこんでいるものが、果たして本当に大切なものなのかどうか。もし本当に大切なものなのであれば、そんなにぎゅっとしないで、どうか自由にしてあげるほうがいい。
そしてそれは同時に ”自分自身を自由にしてあげること”だと思う。自由になると、自分の大切に思っているものはどちらにせよ必ず手に入るのだから。

物事には、それがどんなに小さくても、どんなに狭くても、”優しくて柔らかい部分”というものがあるように思う。その物事というのは、仕事であったり、生活で あったり、場所であったり。使っているお皿や椅子とか、洋服とかにも。対、動物や人でも同じこと。家族であったり、恋人であったり。自分の周りに在ると思える すべての事柄に対して。
その”優しくて柔らかい部分”をどれだけ感じられるか、そしてどれだけそれを大切に扱えるか。それからそれをいかに手放せるか。それが”気”なんじゃないかと、最近は考える。

それから、いつだって自分が楽しむ方向に向くこと。
身体のチューニングは、そこから始まって、それに終わる...
ように最近は思うのだ。

...以上、研究途中報告!




写真は、オランダのペーパーアーティスト、Peter Gentenaar氏の作品。
2009年 フランス Saint-Riquierの教会での展示。 
http://www.gentenaar-torley.nl/index.php/peter-gentenaar
http://www.lanciatrendvisions.com/en/article/like-leaves-in-the-wind