2015年1月16日金曜日

ポンヌフからBoBoまで

わたしには映画を選ぶセンスがあまりない。というのも、わたしが見てみたい!と思う映画はたいてい、全部が全部ではないけれど90%くらいでハズレなのだ。映画と言っても最近はほとんど映画館でなくて、ツタヤに行ってDVDを借りて家で恋人と一緒に見ることが多い。彼はいつのまにそんなに見たのかというほどよく映画を見ているので、だいたいこれよかったよ的なおすすめ映画を一緒に借りて見ることがほとんど。たまには君が選んでよと過去何回か言われ、わたしが見てみたいと思ったものを選び、そしてその結果...今までほぼ失敗している。
前々回は”クロワッサンで朝食を”で失敗した。それの前は”ビフォア ミッドナイト”。これは至上最悪だった。前作(ビフォア サンセット)が好き過ぎただけに落ち込み度ときたらなかった。
というわけで、彼とふたりで、もう今後はわたしは映画を選ばないことにしようと決めた。
はずだったのだけど、なぜかその記憶がふたりとも抜け落ちていて、うっかりこの間、また選んでしまった。20代の頃からずっと見たいと思っていたけれどなんとなく見る機会を失っていた”ポンヌフの恋人”。


わたしはParisの街並みが大好きなので、Parisが舞台になっている映画はあの街並みが見れるはず!なんて単純に、あらすじなんて読まずにそれだけで選んでしまうことが多い。まあParisが舞台のものじゃなくても、わたしはあんまりあらすじを読んだりせずに、ジャケットデザインとか、色合いとか、雑誌の評判とか、好きな女優が出てるとか、そういうのだけで選んでしまう。根本的にそれが失敗の理由だと最近はうすうす感づいてきた。

で、ポンヌフの恋人。期待が大きかっただけに、がっくりだった。何のためにあの二人の境遇を主人公に置いたのか、置かなければならなかったのか全くもってわからなかった。別に乞食でなくたって、失明の危機になくたってよかったのではないか。そんな境遇じゃなくても、あれほどエゴだらけの人たちはごまんといるはずだ。最初から最後まで、一切の感情移入ができなかった。ただ単にそういう境遇や退廃的な雰囲気で、”ちょっとアーティスティック”な感じを作り出したかったのではないかとそんな風に感じた。このちょっとアーティスティックってのが、あの”○○臭い”に通じるわたしの苦手な胡散臭さが漂うので、わたしは拒否反応を起こしてしまう。(詳しくはこちらへ)そしてそこからつながる”お洒落臭い感じ”がいやなのだ。つまり、スノビッシュ、いわゆるわたしが苦手とする"BoBo" (ボボ)なのだ。わたしの恋人はフランス人なので、"BoBo" に関しては彼の方がもちろん目ざとい。わたしたちはこの"BoBo"が苦手なのである。


一体"BoBo"とは何かと言うと...

まずはちょっと日本のサイトに紹介されていたページから引用
”パリでオーガニックなライフスタイルを送り、おしゃれリーダーとして知られているのが「BOBO(ボボ:ブルジョワ・ボヘミアンの略)」と呼ばれる人たち。裕福な家庭でしっかりとした教養を受けて育ち、ファッション関係やメディアなど、憧れの仕事に就き活躍しています。
でも、その暮らしぶりはいたってナチュラル。高級ブランドに囲まれたラグジュアリーな生活よりも、自分の時間を大切にしたリラックス重視の暮らしを送り、都会にいながらオーガニックや身体に良いものを、ごく自然に取り入れています。”
 引用:http://www.ilyfunet.com/ovni/actualites/couv/530_quartier.html

次に日本のファッション雑誌のパリ特集の見出から引用
”ボボとは、ブルジョワ・ボヘミアンの略。クラシックな左岸を避け、右岸の新しいエリアで、ヌーヴォーシックなファミリーライフを楽しんでいる彼・彼女たちの日常をリポート。”
”ブルジョワ・ボヘミアンのイニシャルをとってボボと呼ばれる種族について、彼女はこう説明してくれた。もちろん自分もボボであると認識する。
「ボボって6区や16区あたりのブルジョワ家庭の出身者なのよ。しっかりとした教育を受け、どちらかというとカトリック。大人になった彼らがミックスカルチャーを求めて、パリの庶民的な地区で暮らすようになって......」”

もうこの文章、書いてるだけでいやだ(笑) ”ヌーヴォーシックってなんやねん(笑)”どちらかというとカトリック”ってなんやねん(笑)ちなみにページタイトルは「新おしゃれ種族、9区10区のボボたちとは?」
つまり、日本人にとって”BoBo”とは”憧れのお洒落な人たち”なのである。


わたしがParisに住んでいた時、この "BoBo"というのは、フランス人は批判的な言葉としてみんな使っていたので、あんまり人を褒める時に使う単語ではないと認識していた。 (というか、今もそう思っている。)みんなこの言葉を耳にすると、鼻で笑うか苦笑いしてするような、「BoBoねえ~、まったくねえ...」そんな感じ。
"BoBo"はbourgeois-bohemeの略語で、ボヘミアン的なブルジョワということになる。ブルジョワ階級だけど、保守的な右翼とは違った、左翼的な思想を持った人たちのことをいうらしい。
Parisでいうと、30代、40代で、自由業に就いている裕福な階層。でも、7区、16区な どの閑静で治安がいいだけが取り柄の高級住宅街には住みたがらず、移民が多く住む10区、11区、20区などにある工場などを買い取って、広々とした超モダンな住宅に改造して住みついている。
問題は、"BoBo"が進出するにつれて、Paris東北部の地価が高騰し、家賃は上がり、移民を初めとする貧しい人たちや職人たちは、ますます郊外に追いやられ ているという状況。そのうえ、BoBoたちがせっかく”開拓した”地区に、低家賃住宅などの建設計画が出たりすると、真っ先に反対するのも彼らだという。

”Parisを車で移動なんて環境に悪いし古臭いわ、もっぱら移動は自転車なの、べべ(赤ちゃん)はベビーカーにのせて散歩するのよ。彼女のこの靴下?あら、やっぱり分かる?これボン・ポワン(高級子供服店)の今シーズンものなのよ。え?わたしのこのデニム?蚤の市で買ったの、安物のリーヴァイス。でもねトップスはクロエの今シーズンのもの。わたし堅苦しいのって大嫌い、仕事もほら、クリエイティブだし、時間は自由に使わきゃ。今日は夫と20区の行き着けのタイ料理屋でディナーなの。でも、ねえ聞いて、最近憂鬱なのよ。だって、これ以上世界の環境破壊が進むことってあるのかしら?小さなことから始めれたらって思って、コットンは全部オーガニックコットンを使うようにしてるの。同性愛婚?もちろん賛成よ、愛に性別の差別なんてするべきじゃないわ。”
↑わたしの中の妄想BoBo(笑)

わたしたちお金持ちライフになんて興味ないの、もっと庶民に近い感覚で人生を楽しんで、人助けもしたいの的な、なんて言うんだろうか...
きっと素敵なライフなんだろうと思うけれど、この手の人たちというのは、本質を見極めようとはせず、もちろんわかっていないだけに始末が悪い。何もフランスだけじゃなくたって、こういう人たちというのは日本にもいる。ただし、日本ではセレブに近い人はいても、ブルジョアと呼べるほどの富裕層も上流階級もほとんどいないので、"BoBo"とは呼べないのかもしれない。だけど、その考え方だけで十分なので、わたしと彼はふたりで、あの人"BoBo"だね、なんて言ったりしている...ww

 
というわけで、ポンヌフの恋人はわたしにとって、 "BoBo"的映画だった。なんかいかにも日本のお洒落芸能人が好きそうだと思った。橋の上で二人で踊る愛のダンス(笑)はもちろんコンテンポラリーなわけで、なぜそこにクラシックではなくコンテンポラリーダンスが必要なのか、そもそもコンテンポラリーダンスという芸術の意味を理解した上でなのか、そういうところがなんとなく気になった。たいていの場合、映画のストーリーよりも、画面の色彩の美しさとか、カットの美しさとかそういうところにわたしは結構惹かれたりするのだけど、それもひとつのカットを覗いては、残念ながらパッとはしなかった。ジュリエット・ビノシュが好きなだけに、がっくりした。←きっと、こういうミーハーなので、映画選びを失敗するのだ。


先週Parisで起こった、シャルリー・エブドの事件。わたしも、何があっても暴力には断固反対だし、表現の自由は守るべきだと思う。だけど、それがイコール、”Je suis Charlie(わたしはシャルリー)”ということではない、と思う。わたしはシャルリー・エブドではないし、彼らと共有するものは持っていない。かなり下品で下劣な風刺表現が多い新聞で、わたしはどんなに暴力に反対で表現の自由を尊重したいと思っていても、あの新聞を買うことへのイコールにはならない。読みたいとも思わないからだ。福島の野菜を買うのと同じこと。本当に必要なのはそこじゃないはずだ。

あらま、今回はなんとも批判的な感じになってしまったー
それもこれもわたしの映画選びの自信喪失からくるやさぐれなのです♡
というわけで、わたしは映画を選ぶ担当からは完璧に外されました。








2015年1月8日木曜日

それから、旅の始まり

あのショコラを口にした瞬間から旅の扉が開かれた。

その扉から続く道を進むと、雨が降ってきた。どこからともなくびゅうと風が吹き、雨はいっそう激しくなった。体が塗れてどんどん体温が奪われていく。早く雨がやみますようにと祈りながら歩いた。それでも風は止まず、次第に雨は雪に変わっていった。雪はわたしの肩にどんどん積もっていく。体は芯まで冷え、手や足の指の感覚はなくなった。辺りは真っ白で、空と空気と地面の境がなくなっていた。わたしは祈ることをやめた。その代わりに、目を閉じ吹きつける風の音を受け入れ、体に雪を纏う(まとう)感覚を持って歩くことにした。
しばらくそのまま黙々と道を進んだ。少しずつ雪はゆっくりとわたしの体温で溶け始めた。いつのまにか風は止み、気がつくと空が晴れていた。少しずつ手の感覚が戻り、踏み出す足の感覚も戻ってきた。
気がつくと隣に恋人がいた。手をつなぎ、ふたりで道を進んだ。つないだ方の手が徐々に暖かくなってきた。ふたりともぎゅっとつなぎあっていたので、手は熱を帯び、とても熱くなった。熱すぎてつないでいられなくなって、手を離した。すると、離したわたしの手の平に何か、こそばいようなごにょにょとした感触を覚えた。手の平を掻いたり、手を何度か閉じたり開いたりを繰り返した。そしてもう一度ゆっくりと閉じてその後にそっと手を開くと、手の中に銀色にきらりと光る指輪が入っていた。驚いて思わず彼の顔をみると、小さな子供のようなそれでいてお爺さんのようななんともいえない顔で嬉しそうににやりと笑った。細かな細工が施された細い指輪で、指にはめるとぴったりのサイズだった。あまりにもその細工が綺麗だったのでわたしは指輪をはめてしばらくの間はめた指に見とれてしまっていた。


ごそごそという音がするので顔をあげると、目の前にきらきらとまぶしく光る2メートルほどの高い壁が現れていた。よく見ると土でできた壁には色とりどりのガラスがびっしりと全面に飾りつけられている。ガラスに光が反射して色とりどりに光っているのだった。音のする方へ壁を伝ってあるくと、壁は曲がり角になり、どうやらそれは大きな正方形の箱になっているようだった。その箱は、これから歩く道の真ん中にどんと置かれている。上の方でごそごそと音がするので見上げると、彼がその箱の壁をよじ登り、箱の中に入ろうとしている。なんとかして彼はその箱の壁の頂上に立った。ずらすように開閉するのか、箱のふたが少しだけずれて、中が開いているようだった。取り残されてはいけないと、急いでわたしもよじ登ろうとすると、頂上に立った彼が「君はちゃんと道を歩いて来ないとだめだよ。僕は先に行って待ってるからね。」と言って微笑むと、箱の中に入り、そのまま箱のふたを中からずりずりと閉めた。ふたが閉まった途端、その箱は小さくなり、最後はピンクの煙をふわりと残して消えた。足元を見ると、道も消えていた。
わたしの周りには何も無かった。何もないところにわたしはただただ立っていた。どうしようもない淋しさがこみ上げてきて、目から涙がぼたりと落ちた。涙は地面に落ちるとすぐにジュワっと蒸発した。あまりにも大きな涙の粒だったので、わたしは両手を受け皿のようにしてそれを受けた。涙が指にはめた指輪の上にぼたりと落ち、その瞬間指輪は蒸発し、指輪の施されていた細工の柄だけがそのまま指に跡のように刻印された。
目を閉じてみた。さっきの箱と同じ色とりどりの光がまばゆく光っている。手を開き、目を閉じたまま刻印をその光にかざしてみる。確かにある。指輪はわたしの体の一部になっている。その光を集めて道を作ってみる。足を踏み出す。大丈夫、進める。



空想なのか夢なのか。幻想なのか現実なのか。
わたしが体験していること。

何かを見つけた人へ。何もかも見失った気分になっている人へ。
何かを探している人へ。旅の途中の人へ。








2015年1月1日木曜日

魅惑のショコラ、旅の鍵

「これあげる。すっごく強いから気をつけてね。子供とかは強すぎて食べられないから。」 その女性からわたしは一粒の丸いショコラを受け取った。ポンと手の平にのせられたそのショコラはアルミホイルで丸く包まれていた。最近知り合いになったばかりのその素敵な女性はわたしにそのショコラを手渡すと、くるりと向きを変えて行ってしまったので、いったい”強い”ってなんのことなんだろうかと気になったが、聞くタイミングを逃してしまった。とりあえずショコラを鞄の中にそっと仕舞い込んだ。


その日は音楽のイベントで恋人と一緒に参加していた。イベントの終盤くらいでわたしは高揚した場所の雰囲気に少しのみこまれてしまったのか、少し気分が落ち着かなくなった。わたしの少し不安定な様子に恋人が気づき、何か温かい飲み物を持ってきてあげると言ってドリンクバーにたった。わたしは彼を待つ間、気持ちが落ち着くようにじっと座っていたが、ふとショコラのことを思い出し、鞄の中から取り出した。彼が戻ってきたので、「これ、さっきの女の人がくれたの。ショコラ。なんだかわからないけど、すごく強いらしい。食べてみる?」と聞いて、ふたりでそれを齧って食べた。黒胡椒が入っているのか、どこかピリッとして、ビターショコラにスパイスが効いた風味はわたしの好きな味だった。それは彼が持ってきてくれたカルダモンの温かいチャイにとてもよく合った。美味しいねこれ、なんて言いあっているうちに、気持ちがずいぶんと落ち着いた。


面白いな~と思う。何かを口に入れ、それを飲み込む。ただ単純なことだけど、それが自分の体と心に作用し、自分の肌を薄く覆うものを色づけ、そしてその外側にあるものに反映する。その口に入れた何かは一体何なのか、どんな旅をしてきたのか、誰から託されたものなのか、そういうものがすべて自分の内と外の境界に溶け込む。

ちなみにその強いワケは、マカがたくさん入っていたから。媚薬入りのそのショコラは、わたしにとって新しい旅の始まりのキーアイテムだった。そういう鍵をわたしに渡すのは、なぜかいつも決まって素敵な女性たちなのだ。


そうこうしているうちに、あっという間に年を越してしまった。2014年は、生活をすることと芸術に関すること、身体のことと宇宙のこと、男と女の関係と子供が大人になること、食べることと選択すること、癒すことと癒し合うこと、いろんなことを再発見したいい一年だった。それらは何か魔法が働いているかのようにひとつずつ浮かびあがりつながりを見せ始めている。そして、女であるということの感覚もまた違う色合いが加わって、自分の中で変化している。

月の香りを感じたり、黒色の官能を選んだり、揺れるスカートで現実を少し覆って、ひとりにやりと匂いに潜む秘密の記憶を楽しむ。言い訳の赤は太い指でぬぐってもらう。お湯の中に体を沈めて、耳までそっと入れる。目を閉じる。滲む色を味わう。揺らぐリズムに身を委ねる。


そして、わたしは今年もやっぱり、きらきらと楽しんでいる女性たちに魅かれるのだろう。その愛らしい人たちに、温かい腕を差し出す男の人には ”がんばってね~”とおせっかいのエールを送ることも忘れないでおこう。

皆さん、2015年も彩り豊かな素敵な日々を。