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2015年6月25日木曜日

Paris 私的回想録 - 6 区 -

Paris 6区(2007年)

わたしが初めてParisを訪れたのは、当時働いていたアパレルブティックの女社長から、次のパリコレクションのバイイングに連れて行くわと伝えられ、来シーズンの秋冬を買い付けるための1週間の出張旅行だった。わたしが働いていたそのブティックはパリやミラノコレクションが好きな人なら誰でも知っているそれはそれは錚々(そうそう)たるブランドを取り扱うセレクトショップで、その女社長が一代で築き上げ、セレクトされた洋服の目をむく値段と店のディスプレイの風格から、その当時は一目置かれていたブティックだった。わたしは大学を出てすぐそのブティックで社員として働くようになり、潔癖な女社長の機嫌を損なわないようにガラス張りの窓はもちろん梯子でふきあげ、一切の埃や塵が舞う隙をあたえず、店の売り上げ、報告、国内外ブランドのバイイング、個人売りもしっかり予算組みされた上での接客、彼女の趣味で飾る植木の管理やその他経理以外のほとんどの雑用をこなし、日々ハイファッションに身を包み12cmのヒールを履いて毎日店に立っていた。


アパレル業界で働いている物にとって、パリコレクションのショーに招待されること、それからそのフロントローに海外のジャーナリストと肩を並べて座ることは夢のようなことである。「はい、あなたの分ね。」と、わたしの名前が書かれた、ファッション雑誌には必ず巻頭に特集を組まれるようなブランドたちの招待状を受け取ったときは、天にも登る気持ちになった。
Parisの天気は変わりやすいと散々いろんな人から言われ、その上毎日スケジュールを組まれたショーにまさか同じコーディネートをするわけにはいかないと、コート、ジャケット、シャツ、シルクのドレス、バック、アクセサリー、タイツ、ピンヒールにブーツにと、行きのスーツケースから重量オーバーすれすれで日本を発った。

今日は朝から4区の展示会場でのバイイング、そのあとは1区、合間に取り扱いのパリのブティックを視察、ディスプレイのアイデアを盗む、話題のセレクトショップをチェックし、昼食、夕方からは6区のショー会場に移動、同行していた社長の顧客を交えた夕食と、朝から晩までスケジュールはパンパン、足もパンパン、夜ご飯を終えてホテルに着くのは夜中の0時を回っていることもしばしば。毎日がそんなスケジュールだった。
ショー会場で配られるコレクションマップを片手に、初めてのParis、右も左もわからない、それでもいっぱしの業界人気取りで見た目はバッチリハイブランドで固め、石畳を12cmヒールで歩き回った。


そんなスケジュールのなか、半日だけ自由な時間が与えられた。とはいえ、初めてのParis、フランス語は全くわからず、「出口」という意味の"Sortie"と書かれた地下鉄の表示板の読み方さえもわからないような者には、行き先にあまり選択肢はなかった。それでも嬉しくて嬉しくて、特に決まった充てもなくParisの地図だけ抱えて朝7時にホテルから飛び出た。
ホテルから歩いて5分ほどのところに、サンジェルマン デプレという有名な教会があるらしい。名前はなんか聞いたことがある、そこに行ってみよう。
教会では厳粛なミサが行われており、そこにわけもわからず参列してみた。教会の天井から差込む光の筋、足元に揺れるステンドグラスの光の色、祈りのフランス語、何もかもが初めてで、それでなくても浮き足立っていたわたしの体は、それこそ教会の天井に吸い込まれていくかのようだった。

暗がりの教会から出ると差し込む朝日に思わず目を瞬かせた。次はどこへ行こうか。そうだ、有名なカフェが近くにあるって社長が言ってたなと、王道も王道、カフェ・ドフロールを目指した。
メニューは入る前から決まっている。パン・オ・ショコラとエスプレッソ。本場で食べるのが憧れだったのだ。まだ誰も居ないテラスに座る。せいいっぱいの努力をして、フランス語で注文を伝え、最後に”シルヴプレ”を言うことも忘れなかった。
東洋人はそれでなくても年齢より10歳ほど若く見える。この高級地区のテラス席に座り、フランス語も話せない当時20代だったわたしは、店のサービス係りにはよほど滑稽、もしくは奇異にうつったに違いない。旅の恥は掛け捨て、若気の至り、日本語には都合のよい言葉がたくさんある。


そうやって朝食を摂っていると、隣の席に耳下で切り揃えられた少し白髪混じりのパーマスタイル、黒ずくめの50代の男性が座った。ちらりと目をやると、東洋人、どうやら日本人のようである。ここの常連のようで、流暢なフランス語で店員とひとことふたこと言葉を交わしている。なんか、この顔見覚えがある。失礼きわまりないがわたしはじろじろとその男性を眺めた。あ!デザイナーのWさんだ!と気づいた瞬間、思わず「あ!」とわたしの声が漏れていたのだろう、その男性と目が合う。気まずさで思わず「Wさんですか?」と声をかける。彼はパリコレクションでトップレベルを誇るブランドの日本人デザイナーで、自身のブランド名になった彼の名前はファッション好きなら知らない人はいない。

彼はわたしの質問には答えず、静かに「学生さん?」と聞き返してきた。学生ではないこと、セレクトショップで働き、今回バイイングでパリコレに初めて連れて来てもらったことを話した。わたしの働く店の名前を聞かれたので答えると、彼はおもむろに目を細め、途端表情を緩めて静かに話し始めた。
実は、君の働く店の社長さんとは古い知り合いでね。当時僕のブランドを取り扱ってくれていたんだよ。
彼はオムレツを食べる手を休め、わたしの方へ身を傾け話しを続けた。
こんなこと君のような若い人に話すようなことでもないけどね、君の社長と僕は途中でビジネスで仲たがいをしてしまって、彼女とはそれっきりなんだよ。僕はそんな風に彼女と縁が切れてしまったことを残念に思っているんだ。また彼女とビジネスを再会したいとずっと思っているんだけどね。

ところで君は、僕のショーには興味はあるかい?
もちろんわたしの返事は決まっている。
明日の夕方は空いてるかな?もしよかったら、僕のショーがあるんだけど、秘書に席をふたつ用意させるから、誰か友達と来たらいいよ。招待状は秘書にバイク便でホテルに届けさせるから。それから、社長には、ぜひ機会があればまた話したいと伝えて。
ショーのチケットの件はあとで君の携帯に秘書から連絡させるから。

この想像もしない成り行きに、わたしは文字通り天にも昇る気持ちで、このままでは体が宙を舞うのではないかといてもたってもいられなくなり、W氏に礼を伝え、社長へ伝えておくことを約束し、浮き足だって店を出た。


その後取り扱いのブランドのショー会場で社長たちと落ち合い、すぐにW氏と偶然会ったことを報告した。すると話をしているそばからみるみるうちに彼女の顔色から血の気がひいてきた。
普段からわたしは彼女の顔色を四六時中伺いながら仕事をしているのだ。彼女の機嫌が変化したことはすぐさま気づく。
しまった、何かしでかしてしまったみたいだ。
あのデザイナーとよっぽどのことがあったのだろうか、W氏は社長のことを尊敬しているような話しぶりで、本当にもう一度友好な関係を結びたいと言っていた。恋愛ざたの問題などはまったく匂わなかったし、一体何が彼女の気に触ってしまったのだろう...
大好きなブランドのショーだというのに、そのことばかりが頭をぐるぐる回った。

その後ショーの最中も終わってからも会場を出てからも、彼女は一切わたしと話しをせず、目も合わせてくれなかった。社長とひとことも話すこともなく夜ホテルに着く。自分の部屋に戻り、どさりとベッドの倒れた。すると、部屋の電話が鳴った。
「ちょっとわたしの部屋まで来なさい。」社長からだった。 時計を見ると12時を回っている。
わたしは再度身支度をととのえ、階上にある彼女の部屋をノックした。

「W氏との今日のいきさつ、どういうことかもう一度話して。」
初めから事細かく話し、彼はあなたともう一度話ができるようになりたいと思っているとそう仰っしゃっていましたと伝えたあたりで、彼女はわたしの話しを遮り、こう言った。
「つまり、あなたはわたしの名前を利用して、その有名なデザイナーにショーの招待状をもらったっていうわけよね?だってわたしの名前を出さないと、彼があなたを招待するはずがないもの。」
わたしは何も伝えられなかった。なぜなら彼女はいつも自分の出す答えに完璧な肯定を、完璧な降伏しか求めていないことを知っているから。
「その招待状届いたらわたしに渡してね。まさか行くつもりじゃないでしょ?」


次の日、ホテルに届いていた招待状を手に、W氏の秘書にショーへは行けなくなった旨の連絡をした。するとすぐにW氏本人からわたしの携帯へ連絡がきた。
もしかして、本当は社長が僕のことで気分を害したからなのではないかとわたしへ問う彼に、自分が他のショーの日程を間違えて把握しており、わたしのミスであなたのショーへはいけないのだと答えた。
彼は一瞬無言になった後、「大事なショーの席なんだ。仕事をなめるな。」と言い残し、電話を切った。しばらく、ツーツーと不通音を響かせる受話器を置けずにわたしはその場に立ち尽くした。


次の日、社長は何事もなかったように、ベルギーへ行くので滞在が長くなることをわたしに告げ、気をつけて帰りなさいと笑顔を見せた。
社長たちと別れ、わたしは帰りの飛行機に乗るためひとりでドゴール空港までタクシーに乗った。窓からは遠くにそびえ立つエッフェル塔が見えた。切り取った絵のようなそのエッフェル塔に、帰国したらアパレル業界から足を洗うこと、それから自分の意思でもう一度Parisの街へ来ることを誓った。頑なな子供みたいにぎゅっと膝の上で手を握りしめ、目を閉じて、ただそれだけを誓った。







2014年12月4日木曜日

Paris 私的回想録 - 完璧なメトロの降り方-

黄色のMの看板が目印。Parisの街ではその看板の下に地下への穴が開いている。階段を降りる。とたんに、洗剤と尿と何かシミックな花の香りを混ぜたような、酸の効いたそれでいて甘ったるい独特の匂いが鼻をつく。切れかけた蛍光灯のギリギリと鳴る音。半分剥がれた両側のポスターの間を歩く。改札のランプの上にカードパスをかざす。ひと気の少ない構内にビーと機会音が響く。ホームへの階段を小走りで降りる。ホームの電光掲示板を見上げる。あと何分でこの駅にメトロが到着するかの数字が目に入る。とにかくこの数字ほどあてにならないものはない。
車体がホームに到着する。もちろんアナウンスなどない。鉛色のハンドルに手をかけ扉を開ける。勢いよく扉が開く。
メトロの中に足を踏み入れると、今度は体臭と埃を交ぜた匂いに包まれる。席が二つずつ向かい合うボックス型の四つ席の通路側に座った。
隣には黒人の若い20代前半くらいの男が座っている。チャコールグレーのパーカーと黒いジーンズ。ジーンズはもう何年も履き続けているのだろう、色落ちしてパーカーと同じような暗いグレーになっている。その向かいには鮮やかなスカーフを頭に巻いたお尻の大きな50代くらいの黒人の女が座っていた。
一駅ほど過ぎた頃、女が自分の手提げ鞄からちり紙を取り出して、向かいの若い男に手渡した。男の方を見ると唇が乾燥して血が出ていた。男の肌の色もパーカーもジーンズも墨色のグラデーションだったので、その血の赤は男に似合っていた。
男は「Merci. ありがとう。」とぼそりと言い、ちり紙を受け取って唇の血を拭い取った。「De rien. どういたしまして。」とスカーフの女は小さくウィンクをし、お尻を揺らし次の駅に着いて車内から降りて行った。若い男は下を向いたまま、血のついたちり紙をジーンズのポケットに仕舞い込んだ。


その日の帰り、また四つ席の通路側に座っていた。白いマフラーを巻いた5歳くらいの金髪の女の子とその母親が乗ってきて、向かい側に座った。女の子が母親に何か耳打ちをすると、母親が笑って鞄からビスケットの袋を取り出し渡した。女の子は袋を自分で破き、チョコレートでコーティングされた四角いビスケットを食べ始めた。
ひと駅過ぎた頃、突然その女の子が口に手をあてえづきだした。そして、見る見るうちに首に巻いた白いマフラーの上にはどろどろチョコレートが流れ込み、ハンカチを出す余裕がなかった彼女の母親はもう仕方ないとばかりに、その白いマフラーで女の子の口を必死にぬぐった。女の子の白い頬も母親の白い手もチョコレートまみれになっている。

ここ。ここの瞬間で。鞄からちり紙を出す。そしてさっと手渡す。
ウィンクをして、席を立つ。ちょうど目的の駅に着く。鉛色のハンドルに手をかけ扉を開ける。列車が完全に止まる少し前、リズミカルにトンとホームに降りる。

これができたら、もうParisのメトロは完璧。





2014年10月15日水曜日

Paris 私的回想録 - 13 区 -

メトロの駅を地上に上がるとそこはイタリア大通りとトリビヤック通りの大きな四つ角の交差点だ。そこからトリビヤック通りを南にずんずん歩く。この通りは三車線の少しゆったりとした並木道の通りで、駅から歩いて薬屋や大きな八百屋を過ぎたあたりから、何やら中華料理屋やベトナム料理屋のがネオンの看板が多く目に入ってくる。初めて足を踏み入れたカルチエなので、京子さんが歩く方向にわたしはただただ付いていく。京子さんの年齢はわからない。見た目は同い年くらいに見えるがおそらく7,8歳離れていたと思う。多分知り合い始めの頃に年齢を聞いたかもしれないが、忘れてしまった。彼女はParisで美容師をしている。
わたしの入居と入れ替わりで日本へ帰国した友人がアパルトマンの鍵と一緒に、電話番号とKyokoと書かれたメモをくれた。
「ここに電話してわたしの紹介ですって言えば、大丈夫。とにかく、フランス人に髪の毛を切ってもらうのは止めといた方がいいよ。」 その電話番号が京子さんの携帯番号だった。

 
京子さんと初めて会った日に、それまでボブのストレートヘアだったわたしは、彼女に強いパーマをかけてもらった。なぜだかわからないがParisに住み始めてから無性に強いパーマのかかったスタイルにしたくなった、というのを京子さんに言うと、彼女は笑った。日本人の若い女性はほとんどが栗色に髪を染めて パーマをかけたとしてもゆるくふんわりとした、いわば欧米人のようなヘアスタイルを希望するそうで、そうかと思えばParisに長く住む日本人女性はほとんどが黒髪のストレートロングヘア志向の人が多いらしく、京子さんはそのどちらでもない趣味のわたしを面白がり、「久しぶりにこんな強いパーマをかけられる~!」なんて楽しんでくれた。その日から京子さんとは時々ご飯を食べに行ったりお茶をしたりする仲になった。

ところでParisに長く住むと日本人はなぜかみんな「Parisで一番美味しいPhoの店」のアドレスをおのおの持つようになるようなのだ。色んな人が、あそこがParisで一番美味しいPhoを出すお店だよ、と言うのを聞いた。
わたしはというと、結局帰国の日まで、「自分の一番美味しいPhoの店」を持つことはできなかった。どこのを食べても美味しいし、だけどまあまあ似たような味に感じていた。わたしが思うにおそらく「Parisで一番美味しいPhoの店」のアドレスを持つということは、Parisに住む年月に深くかかわっている。それは醤油味に似た味わいを欲し、自分の欲求を納得させるほどのアドレスを見つけることへの切実な探求あってこそなのだ。1年やそこらでわたしはそんな切実にアジア味を恋しくなることはなかった。食べれたら食べるでいい、食べられないなら別にそれはそれで構わなかった。


というわけで、その日わたしは京子さんに誘われて彼女の「Parisで一番美味しいPhoの店」に行くことになった。彼女のPhoの店は、Parisでも一、二を争うくらい有名なPhoのお店のすぐ隣にあった。その有名なPhoの店はいつ通りがかっても、店の前に長い行列ができている。彼女曰く、その有名な店のPhoはツーリスト向けなのだそう。とはいえ、以前彼女もその”ツーリスト向け”のPho目当てで来た時、その長い行列を見てあきらめ隣の店に入ったところ、このParisで一番美味しいPhoに出会ったのだそうだ。
目の前に出てきたのは真っ赤なPhoだった。唐辛子がふんだんに入った、Phoにしてはこってりとした濃厚なスープで、ふたりしてふうふう汗をかきながら食べた。スタンダードなPhoではないが、なるほどクセになるような、何ヶ月かに1回くらい無償に食べたくなるような、そんな味だった。


フランスには、旧植民地であったベトナムから移住してきたベトナム人が多く暮らしている。特にこのカルチエは、フランスだと思えないほどベトナム料理屋や中華料理屋がひしめくように並び、ベトナム人や中国人がたくさん住んでいる。看板の派手な色の組み合わせや、聞こえてくる中国語かベトナム語かだかの喧騒はまたたくまにアジアの街にトリップしたような気にさせる。そして歩いているとなんだか不思議と元気になるのだ。そんな時、やっぱり自分はアジア人なんだななんて感じる。


Parisに住んでいた間で、Parisに住むいろんな日本人と知り合いになった。Parisに来て何ヶ月かの人、3~4年くらいの人、十年以上も住んでいる人、何かを志して修行中の人、学生、駐在員、その家族、自分の店を経営している人、フランス人と結婚をしている人、ビジネスマン、アーティスト、同時に色んなところで色んなことをしている人、日本人同士でいるのが大好きな人、日本人が嫌いな人、Parisじゃないと生きていけないという人もいれば、日本に帰りたいけどなぜかここに居るっていう人もいた。そして全員が程度はあるにせよ、フランス語を話す。それぞれがそれぞれ独特の訛りを持って。
わたしは、彼らと一緒に居るのが楽な時もあれば、フランス人の友人と居る方がしっくりくる時もあった。
そしてわたしはそれぞれの日本人たちと関わり合うなかで、その人たちがふわりと身にまとっている、Parisの街の独特のオーラを感じをうけるようになった。たまに日本から友人たちが旅行で来た時、その友人たちの日本から持ってきたオーラは、Parisに住んでいる日本人たちのそれとは違いすぎて、どちらがいいとか悪いとかそういうのではなく、ただただその違いを感じてはわたしはなぜか自分だけがどちらでもなく、ひとり漂っているような不思議な感覚になっていた。

そういう感覚が強くなる時、こんなアジアのどこかのような、それでいてアジアのどこにもないような場所に来ると、なぜだかほっとするのだ。
ここもまぎれもないParisの一角。





2014年10月8日水曜日

Paris 私的回想録 - 16 区 -

Paris 16区(2010年 6月)

「パレ・ド・トーキョーの今度の展覧会の出品作品に選ばれたんだ」
いつも冷静で物静かなモトがその日は少しだけ興奮してわたしに言った。
パレ・ド・トーキョーというのは、現代美術を取り扱う16区にある美術館のこと。モトはわたしと年齢がひとつ違いの日本人で、Parisで友達になった。彼は高校を卒業してからずっとフランスに住んでいるので、もう15年以上もフランスにいる。フランス語で会話することもまったく問題がないし、それはそれは綺麗なフランス人の奥さんまでいる。彼の職業はアーティストで、主に彫刻作品を制作している。その彼の作品がパレ・ド・トーキョーと、隣のパリ市立近代美術館の、2会場共催による大規模なグループ展に出品されるというのである。

その展覧会開催の前日、関係者だけが招待されるプレオープンの夜に、モトはわたしを含め彼の友人たちを招待した。彼は日本人が経営するレストランで働いていたので、わたしやその友人たちは日本人同士の仲間で、その展覧会にかけつけた。
2会場共催ということで、作品もかなりの数で見ごたえがあり、夜中12時の美術館の閉館時間までみっちりと作品たちを堪能した。閉館時間を過ぎると、パレ・ド・トーキョーとパリ市立近代美術館の中庭全部がDJブースとなり、パーティが始まる。人の多さと熱気のせいで、Parisにはめずらしくビールがよく合う夜だった。ギラギラに点灯したエッフェル塔がのぞく中庭で、踊ったり話したり、銘々に楽しんだ。
そして、作品もパーティも存分に楽しんだわたしたちは、その後、モトの美大時代からのアーティスト仲間であるフランス人たちを交え、7,8人でビストロへ行こうということになった。

 
ビストロに着き、7,8名ということで店のスタッフは手際よくいくつかのテーブルをひとつに並べ、全員がひとつになって座れるようにセッティングをしてくれた。モト以外のわたしたち日本人は左側に固まって座り、フランス人たちはモトを囲み右側に座った。わたしはその左側の端、ちょうど全員が見渡せる誕生日席のような場所に座った。
そのフランス人の中には、その内の誰だかの彼女とかで唯一女性がひとりいた。いかにもパリジェンヌといった白地に細かい柄の入ったワンピースと金髪を無造作にシニヨンにした髪、赤い口紅のフランス人女性だ。おそらくその彼氏が呼び寄せたのだろう、彼女はわたしたちが席について20分ほどしてから店に着き、自分の彼氏やモト、顔見知りの友人たちに挨拶をし、席についた。

わたしたち日本人とフランス人はモトを囲んで全員で話が盛り上がる、なんてはずもなく、左と右に分かれた。いや、実をいうと完全に分かれていたわけではなく、左側の日本人グループは右側のフランス人たちの会話に入っていこうとするのだが、いかんせん日本人全員が、程度はあるにせよつたないフランス語しか話せなかったので、結局会話は途切れ、フランス人同士だけで話が盛り上がる。フランス人たちがモトを囲んで盛り上がっている話題は、その展覧会について、その作品たちについて。
そしてその彼女は、その会話に入っていけない日本人たちを完璧に無視の態度だった。日本人のひとりが会話に入ろうと話かけても無視、目も合せない、というか顔すらこちらに向けない。日本人が話し、もし他のフランス人たちが少しそちらに耳をかたむけたとすると、ひとり不機嫌そうに下を向いて爪をいじる。とにかく無視。
わたしはその女性の態度と、そしてその態度をガンガンに感じているにもかかわらずそれでもへらへら笑いながらがんばって会話についていこうとしている日本人(わたしの友人たち)の態度に、居心地の悪さを覚えた。イライラした。べつに無理して会話なんかに入らなくてもいいじゃないか。

そして少し経ち、話に時々入ろうとする日本人たちを無視し続けることに限界がきたのか、もしくは同じ空気を吸うことに限界がきたのか、彼女は突然椅子から立ち上がり、彼氏に不機嫌に「帰る」とだけ言い、さっさとひとりで店を出て行ってしまった。彼氏も取り残された後、首をかしげていた。


何の理由で彼女はわたしたち日本人を完全に無視していたのだろうか?
わたしたちが日本人でなければ、彼女は楽しく会話をしたのだろうか?
もしくはわたしたちがフランス語でのコミュニケーションに全く問題がなければ、彼女は楽しく会話をしたのだろうか?
彼女が去った後もわたしはそればかりを考えていた。


フランスの中でフランス語が自由に操られないということは、相手に意見をする術を持たないということだ。(お互いが英語等他言語を話せるならそれはまた別。ただし、英語を流暢に話すフランス人は全員というわけではない。)
自分の意見を伝えないということは、フランスでは自分の意見を持たないのと同じこと。自分の意見を持たない者は、フランスでは対等には扱ってもらえない。
自分の立ち振る舞いや態度、フランス語を話すことの姿勢については、こりゃ軸をしっかり持たないとこの国では舐められるな、なんて、この夜の悔しさはわたしをしゃきっとさせた。

それと、フランス人はよく喋る。何をそんなに一所懸命話すのかと思うほど、本当によく話す。内容はどんなものであれ、もちろんその年代や、知識の深さなどにもよるが、だいたいが「自分はこう思う。」「あれのこういうところが自分は好きだ。」などというように自分の意見を話す。
直接的に相手に伝えること自体の善し悪しは別として、自分の意見を持つということについては、大人として基本的なことだと改めて思い直した。


もちろんあの彼女の”完全無視の態度”が「フランス語を話せないこと」ではないかもしれないということも大きく考えられた。なんとなくだが、彼女はわたしたち日本人が意味もなくへらへらしている態度そのものに”ダサさ”を感じ、イラっときたのではないかとわたしは思っている。まあ、わたしから見ても自分も含めて、格好よくはなかったと思う。
フランスに住むようになり、親日家のフランス人というのはけっしてマイノリティなわけではないことがわかった。親日家ではない人は、アジア人の区別なんてつかないのは当たり前。フランスに住むようになり、自分が有色人種であることを認識するようになったし、差別の対象になり得ることも知った。

外国に住むということについて、人それぞれにいろんな考え方があると思うが、わたしは、一種、腹の底に力を据えて、その上で柔軟な姿勢を保つというような感覚が必要だと感じた。まあ外国に住まなくたって、いつだってどこだって同じなんだけど。


Parisに住むと、くっそー!と悔しい思いをすることがたくさんあるが、どちらにしても態度で、言葉で意思表示をしないと、ただ無視されて終わるだけ。言葉を習得して出直すしかない。
ただ、もしかしてこの悔しさエッセンスも、Parisの魅力の一部なのでは...なんて思うのだ。






2014年9月30日火曜日

Paris 私的回想録 - 18 区 -

気がついたらただただ階段を登っていた。最後の一段をのぼり、目の前に立つサクレクール寺院を見上げた。長く階段を登ったせいで温まった息は一層白く、寺院の壁の灰白色と混じり、空気の中に煙のように消える。

あの日なぜあんなにも寂しい気持ちだったのか、なぜあんなにも気持ちがキュウとなっていたのか、今となっては思い出せない。突然発作のようになぜかサクレクール寺院をひとりで見たくなった。冬の日の曇天の空の下で、寺院の壁はいったい何色に見えるのだろうかとそれが気になり、Abbesses(アベス)駅でメトロを降り、長い坂の階段を登った。こんな平日の寒い日に来る観光客は少ないのだろう。いつもなら寺院の白亜の壁を背景にして観光客の色とりどりの洋服の色がちらちらと視界に入るのだが、今日は背景の色だけをゆっくり眺めることができる。以前訪れたのは初夏だった。その時は青い空の下にくっきりと寺院が白く浮かびあがっていたが、目の前の寺院は輪郭の線や色があいまいで、ごしごしと指でこすると、そのままごにょごにょと周りの空気の中に混じりって消えてしまいそうだ。


しばらくぼーっとその壁の色を見ていた。それから後ろの階段を少し降り、広場に立った。晴れた日ならここから遠くまでParisの街を見渡せるが、今日のParisは街全体に牛乳がこぼれたみたいだ。隅から隅までたっぷりと薄い灰色に滲んでいる。
牛乳で滲んだParisの街。悪くない。晴れた日の眩しいParisはくっきりと美しすぎる。
街にこぼれた牛乳をすするようにして、息を吸い込んでみた。そうするとわたし体の中の空間がすこし膨らんで、その景色の一部がわたしの体にじわりと混じり込んだ。

 
気がつくと夕方の5時を過ぎていた。辺りはすでに薄暗い。冬の夜の匂いが薄く階段に積もってきたのを感じる。わたしはさっき吸い込んだ景色の不思議な重さ、といっても心地のよい重みを体に感じながら、街灯に照らされた階段を降りはじめた。


あの日を境にして、わたしの体には今になってもParisが混ざり込んでいるのだ。







2014年9月23日火曜日

Paris 私的回想録 - 1 区 -

Parisに住み始めて1ヶ月過ぎた頃、わたしは、さてどうやってフランス語を話せるようになろうかと考え始めた。まったくと言っていいほどフランス語を話せない状態でParisに住み始めたからだ。
語学学校に通うという選択肢はわたしの中ではなかった。Parisの語学学校と言えば授業料が高いことで有名で、そんな授業料を払えるわけなかったし、それにせっかくParisで生活しているのに多くの時間を学校に費やすのが嫌だったのだ。なんとかお金をかけずに、自分の好きな時間を過ごしながらフランス語を話せるようにならないだろうか。

とは言え、フランス語が話せないわたしはもちろんフランス語の文章も十分に理解することができない。だから日本語の情報に頼るしかなかった。Parisには日本語で暮らしていけるのではないかと思うほど、探せば日本語の情報はいくらでも手に入る。
ネットももちろん、有名な日本のフリーペーパーもいくつかあるし、みんな掲示板に個人的な広告を出して、やり取りがけっこう頻繁に行われている。持ち帰ったフリーペーパーをペラペラめくっていると、掲示板ページの中で「日本語とフランス語をエシャンジュしましょう。(Fabien) 」という短い文面のアノンスを見つけた。エシャンジュというのは、交換という意味のフランス語で、ここでは”お互いの言語を交換して勉強し合いましょう”という意味の記事になる。
何の予備知識もないわたしは、お!これなら簡単にフランス語を勉強できるかも♪ なんて、即効そのFabienへメールで連絡したのである。



今思えば無謀である。外国で、掲示板の書き込みだけで水知らずの人と会うのである。その当時のわたしはフランス人の名前もそう詳しくなかったので、その”Fabien”という名前が男性名なのか女性名なのかもわからず、しかも調べもせず無頓着にコンタクトをとってみたのである。
1週間後、Fabienから”来週の月曜日の16時、メトロChâtelet(シャトレ)駅の、シャトレ広場の出口で待ち合わせしましょう。”と返事が来た。

ということで来週の月曜日に会うことになった。
ということを長くParisに住んでいる日本人の知り合いに話したところ、「え?大丈夫?その名前だったら男だよね?ってかそんなフリーペーパーにアノンス出す人なんて男しかいないよね。気をつけた方がいいよー!日本人の女性目当ての漫画とゲーム好きのオタクのフランス人男性がうようよいるんだから!」と言われたのだ。自分の無知に気づき、その瞬間から来週の月曜日が恐くなった。他の知り合いにも聞いてみると、やっぱりあんまりおすすめしないとのこと。どうしよう。

というわけで、行かないことに決めたのである。
とはいうものの「まだ経験する前から怖気づいてどうする?もしいい人だったら?」なんて気持ちもあったりしてちょっとだけ気になってはいた。

そして当日、ヨーロッパに長く住んでいた経験のある友人Iが偶然Parisに旅行で来ていたので会ってお茶をすることになり、「もう行かないけどね、ちょっと気になってはいるんだよね。」とカフェでその話をした。そうすると意外にもその友人Iは「会ってみたらいいよ。きっと怖い思いなんてしないから。今からでも行ったらいいよ。」となぜか迷わずにきっぱりわたしに言った。「別に行かないならそれでもいいけど。でもいい出会いになるかも。きっと怖くないよ。」
時計を見ると16時10分。すでに約束の16時は過ぎている。顔をあげてIを見ると、彼女はわたしの目を見てにやっと笑った。
「やっぱりとりあえず行くことにする!ごめんね!ありがとう!!」

”待ち合わせに少し遅れます。”
ショートメールを送り、カフェを出てすぐにメトロに飛び乗った。


Châteletの駅を知っている人は想像がつくだろうけど、この駅はParisのほぼ中心に位置し、メトロ1、4、7、11、14号線が通り、 RER(近郊高速鉄道線)も止まるので、ターミナル的存在のかなり大きな駅なのである。待ち合わせのシャトレ広場の出口もすぐに見つかるだろうと安易に考えていたのが馬鹿だった。駅構内はだだ広く、即効迷う。長い動く歩道を行ったり来たり、迷ったあげく適当な出口で地上に出ても結局まだ地図を見ることにも慣れていないので、また構内に戻ったり。
時計を見るとすでに16:40。
もうだめだろうと半分あきらめながらも走る。やっとシャトレ広場の出口を見つけて、地上に出た時には16:50。
走った上に、やっぱり変な人だったらどうしようという不安とで、動悸が尋常もなく早い。しかも待ち合わせに便利な場所なのか、人がうようよいて、色んな人が怪しく思えてくる。やっぱり引き返そうか。

 
うわ、なんか目が会ってる人いる、近づいてくる、近づいてくる。なんだか冷たそうな感じの金髪の男性だ。
「あなたですか?僕がFabien ファビアンです。」

彼は背が高く端正な顔立ちの、一見イギリス人俳優にいそうな金髪の男性だった。
なんと彼は1時間もずっと待ってくれていたのだ。(フランス人だからもしかしたら待ったのは45分くらいかもしれないけどww)わたしは覚えたてのフランス語で1時間も遅れたことを詫びた。
「C'est pas grave. 問題ないですよ。お会いできてよかったです。」

わたしのあの最初の心配とはうらはらに、Fabienはとっても紳士的で日本が大好きな、だけど漫画にもゲームにも全く興味のない、穏やかで真面目なとてもいいやつだったのだ。
わたしたちはすぐに打ち解け、フランス語と日本語を教え合うために1週間に1、2回お互いの暇を見つけて会うようになり、時々は美術館に行ったり映画を見たり、お互いの友人を交えてホームパーティに招待したりと、とても仲良くなった。
彼はわたしが初めてParisで友達になったフランス人で、今でも時々連絡を取り合っている大切な友人のひとりとなっている。


とはいえ、今考えると待ち合わせの相手がFabienで運がよかったなと思う。日本人相手の掲示板に書き込んでいるフランス人の男性は、日本の女の子目当てのオタクが90%であることは確かだったことがあとあと分かったので、それからは女の人としかコンタクトをとらないようにした。
それでもやっぱり、アノンスを見て連絡し、あの時行ってよかったと思う。あのおかげでわたしはフランス語を話せるようになった、とちょっと大げさかもしれないが言い切ろうと思う。Fabienと出会えたこともそうだが、あの日Iに会うことになったことも全部つながっている。

それにしても、 Parisに住み慣れてからは、Châteletの駅を待ち合わせに使うようなことも無謀なことだと知った。東京でいうと新宿駅、大阪でいうと大阪駅で初対面の人と待ち合わせするようなものだ。広すぎて人が多すぎて、わたしはよっぽどの用がない限り、Châtelet駅では降りないww 



Parisは不思議な磁場があると何度もここに書いてきたが、Parisの街の中には見えない糸が張り巡らされているのだ。その糸は時空を超えて張り巡らされている。もしかしたら Parisに魅せられる人というのはその糸に何か関係があるのかもしれない。
でもその糸は誰が絡ませているのだろうか。誰が気まぐれに解きほぐしているのだろうか。





2014年9月17日水曜日

Paris 私的回想録 - 19区 -

Paris 19区(2009年 12月- 2010年 7月末)

これから住むアパルトマンがあるメトロの駅のホームにわたしが初めて降り立ったのは、12月の初めの朝の5時過ぎだった。Parisの冬の5時はまだ真っ暗だ。5日前に日本からパリに着いたばかり。まだ地下鉄にもなれていない。しかもあれほど日本を発つ前に、Parisの街をよく知るいろんな人から「人気のない地下鉄にはひとりで乗るな」と忠告を受けていたはずなのに、すでにパリ到着5日目でその忠告を無視している。
すくみそうになる足をどうにか動かし、メトロを降りるとホームを走りとにかく必死に地上への出口を探しかけ上がる。地上に出ると、目に入ったのがメトロの駅の名前が付いたカフェ。そのまま信号を斜めに渡ってパン屋。その横の角にはメガネのチェーン店。もちろんまだ全ての店は閉まっている。真っ暗な中で看板の文字だけが目印だ。左に曲がって、少しそこからゆるやかな坂になる。
Parisの地図の青い本を右手に、住所を走り書きしたメモを左手にぎゅっと握りしめて暗い通りを急ぎ足で、とにかく前だけを見て歩く。高架下の物影が動く度に足を速める。こんな無茶なことするんじゃなかったと後悔で胸と頭が一杯になった時、メモに書いている住所の通りと同じ名前の通りを見つけた。
薄暗く地面も整備されていない小道に入る。


その日はParisに住む日本人の女友達が日本に帰国する日。彼女の借りていたアパルトマンに入れ替わりわたしがその日から住むことになっている。一週間前、わたしがまだ日本を発つ前に彼女と電話をした時には、鍵渡す時にゆっくりお茶でもしようね、なんて言われていたが、出発前の日になって「荷造りが全然終わってないの!5時半にはもう出発するから、悪いけど出発する前に直接アパルトマンまで取りに来て!」と電話がかかってきたのだ。Parisに1年住むと、気性の荒さがすっかりパリジェンヌ化してしまうようだ。

その薄暗い小道、並ぶ建物はどれも同じ建物に見え、番地を注意深く見ながら歩く。あった、十一番地!
蹴れば簡単に開くのではないかと思うような立て付けが悪いそのアパルトマンの朽ちた緑色のドアの前に立ち、部屋番号の呼び鈴を鳴らした。


とにかく快適でないないらすぐ引越しなよ!ハイ、これ!
とぶっきらぼうに彼女から手渡された鍵は、日本では見たことがない初めて手にする、古いヨーロッパ映画でみた鍵のかたちをしていた。

その日からわたしのParisでの暮らしが始まった。
実際蹴るまでいかずとも、足に力を入れて押さえながら鍵を閉めるコツがいる立て付けの悪いアパルトマンのドアや、隙間だらけの斜めの床、日曜日になると隣に住むアフリカ系の家族のアパルトマンから聞こえてくる民族音楽の太鼓の音、すばやく済ませないとお湯から水に変わってしまうシャワー、一睡もできない夜を経験させたねずみの爪音(!)
そのアパルトマンの暮らしは、わたしに順応さ、そして日本の暮らしがいかに快適であるかを体得させた。でも元来柔軟さは持ち合わせているので、1ヶ月もしないうちにわたしはその暮らしを気に入り始めた。(ねずみ以外!)

そこの暮らしを気に入った大きな理由はその地区がとても住みやすかったというのが大きい。アパルトマンから徒歩2分、MOF(フランス国家最優秀職人)取得の美味しいパン屋があり、八百屋も肉屋もチーズ屋も、モノプリもホームセンターもナチュラリア(オーガニック商品専門のスーパー)も本屋も花市場も、生活に必要なものはなんでも揃う。メトロの駅の名前がつくカフェはアパルトマンから5分のところにあり、そこのサラダ・ペリゴールは大のお気に入りで、今でもわたしにとってのParisの味はあれなのだ。そのカフェのすぐそばにはサンマルタン運河が流れ、天気のいい日はその界隈に住む住人が日向ぼっこをしに行く。そんな界隈だ。



近所の八百屋やパン屋の店員と顔馴染みになり、アクセントや”R”が入るその少しむずかしいメトロの駅名をやっと正しく発音できるようになった頃に、かの有名なサンジェルマン・デュプレから目と鼻の先の左岸の界隈へ引っ越すことになり、わたしは19区の暮らしを離れた。

BoBoなのかスノッブなのかしらないが、今でも時々、「いやー、わたしはもっぱら左岸派です。右岸?一桁代ならまだしも二桁の区なんて、そんな移民だらけの庶民くさい界隈なんて、足を踏み入れたこともないよ。」なーんていう人種に出くわすことが極たま~にある。Parisは20区に分かれいて、セーヌ河を境に右岸、左岸と呼ばれている。右岸は特に二桁代、つまり10区~20区は移民が多く住む庶民的な界隈なのだ。
そんなことをいうスノビッシュな人と出会った時、わたしは心の中で大いに”庶民的なフランスの楽しさ”を知っていることの優越感に浸り、そしてそんなことを言う人を面白みのない人だと判断する。
シックな左岸の暮らしももちろん本当に楽しかったが、あの19区の庶民的な暮らしは独特で、フランスという国がまさに人種のるつぼであることを感じさせられ、そしてそれを生活レベルで楽しむことのできる経験は他ではなかったのだから。


Parisには不思議な磁場がある。今でもあの磁場をわたしの体のどこかの器官が察知している、そんな気がする。

こうやって断片的に回想しながら、少しずつParisの街の魅力を解剖してみようか、なんて、意味があるのか無いのか、結果は目に見えているようなもんなのだけど、もしかしたら、もしかしたら、その秘密の端に指先が届くかもしれない。
なぜ今のタイミングなのかはよくわからないけど、わたしの記憶を辿りながらちょっとそれを試みてみようかと思う。Parisを記す。
まあ、飽きたらやめよう。