2018年6月27日水曜日

海の色、音

ふいにぽっかりと時間が空いた夕方、真っしぐらでいつもの海岸に向かった。

喉が渇いてたまらない時のように全身で海を欲する。ざぶりと水の間に身体をすべりこませる。その瞬間全身の力は抜け、水がつくりだす模様に身体が溶け込んだような感覚になる。太陽の光りが入り込み海中を照らす。


小さな青い魚の大群が対面からやってくる。わたしはゆっくりと魚の中をすすむ。無数の魚たちはどれも青くキラキラ光り、あまりにもその群れが長く続くので、もしかして海の色の一部ははこの魚たちの青色なのかもと、一瞬思いをめぐらせてしまった。



泳ぎながら、ふいにスパイクジョーンズの映画herを思い出す。あの世界感と同じ種類のロマンティックな映像と音がこの海の中にはある。その世界にできるだけ長い間身を浸していたくて、わたしはまた海にむかう。

愛しい日々の連続を♡


2018年6月26日火曜日

ある実験

ある人からもらったオーガニックの食用花。一つ一つ形も香りも、それから味も全然違う。酸っぱかったり、豆の味に似ていたり、ほのかに甘い紅の味がしたり、それはそれは個性的な小さな花たちを使って、ローケーキの試作。ぐっと集中してただただ花たちの形や色を見つめる、それだけに心身を注ぐ。瞑想の時間みたいだ。わたしはどんな風に還元していけるだろう。




愛しい日々の連続を♡



ガンガン踊る二日間

金曜の夜、イザベルとニコに誘われてゲイパーティに。いつも思う。ゲイの子たちの目をぐっと見つめると、人に寄って速さはちがうけれど、必ず瞳が細かく震えている。
とにかく明るいテンションのゲイの子たちに混ざって踊り狂って発散した夜。


家でふてくされてる友達をもっとイライラさせるためにおくる写真

その前の日は前の日でフェットドラミュージック。街中で音楽ガンガン鳴らしてもいい日。スティングやらジェインやら国際的に有名なミュージシャンが来るコンサートの招待状をもらっていたけれど、結局仲間内あんまり誰も流行りのポップスに興味がなく土壇場になって行くのをやめて、友達の集まってる場所に。選択正解。ガンガン踊る。

    




エレクトロに身を浸した2日間。こういう音楽が実は身体によくないのはわかっているけれど、まあみんなで踊るのは楽しいのでよし。それにしても休息が必要。

愛しい日々の連続を♡



雨、六月、カモミール

六月。雨。最近雨模様の多いニース。晴天の青い空が特産品のここでは、雨降りというだけで街の景色も住人たちの心模様もガラリと変わる。日々曇天、小雨続きのパリに住むパリジャンたちはそういうニソワ(ニースに住む人)の特質を笑う。
雨の日が続くとはいえ、日本の梅雨の時期とは比べものにならないくらい、へぼいものである。小雨の日がほとんどで、連日雨が一日中続くことは少ない。午前中どさりと降っても午後には日差しが顔を出すことがほとんど。それでもここに住む人たちの多くは曇天をみると心が沈むのだ。

朝から頭が重い。年がら年中機嫌を損ねている老婆の独り言のように昨夜からじめじめと続く雨のせいだ。知り合いからもらったフレッシュなカモミールをいくつか、沸かしたお湯に入れる。蓋をして数分間煎じたものをカップに注ぐ。

いったいわたしは何を表現できるのだろうか。暗くてじめじめとした悲しいもの?それとも光で包まれた、何か暖かく優しいもの?

愛しい日々の連続を♡




2018年5月18日金曜日

カンヌ映画祭、滑稽さと礼儀、ある視点

「Ayami、明日の夜何してる!」
仲の良い女友達ジュリアが興奮して電話をかけてきた。明日は日曜日、たいてい日曜日の夜というのは静かに家にいるものだ。特になんにも予定はないと答えると、イェーイと電話先で奇声をあげている。たった今日本人監督の新作「万引き家族」のカンヌ映画祭ガラ上映の招待状をもらったので一緒に行こうというのである。カンヌ映画祭では他の映画祭と違って、一般向けにチケットを発売しておらず、招待状かプレスパスなどがない限り観ることはできないらしい。

カンヌ映画祭については、年に一度開催される有名な国際的映画祭であること、スター(この言い回し...)がレッドカーペットを練り歩くことはもちろん知っている。最高勲章パルムドールを受賞した映画は友達と話題にして、興味が湧けば見に行く。けれどもわたしは実のところ今の今までそれ以上とくに大きな思い入れがなかった。隣町だというのに観光でさえ訪れたことがない。それでも、好きな監督の最新映画をしかも監督や出演している人たちと同じ空間で鑑賞できるということはわたしにとって大きな大きな興奮だ。もしも樹木希林が来たら最高!!


「もちろんドレスコードあり。Tenue correcte exigée (正装必須)。男性はSmoking(喫煙服:タキシード)、noeud pap(蝶ネクタイ)必須。エレガントな格好していかなければならないよ。Ayami、何着ていけばいいの!!」ジュリアが電話先で悲痛な声をあげている。
ジュリアの叫びのとおり、何を着て行こうか迷う。大阪にいた頃はその頃の仕事柄もあり、着飾って出かける機会がふんだんにあったのだけれど、それもとうの昔のこと。今は完全にジーンズとスニーカー生活である。ニースでは今まで一回も履く機会がなかった裏ソールが赤いパンプスをぜひ履いていけと、シリルが押してくるw 日本に居たころはこういう助言の役目はうちの祖母だったけれど、今はシリルが担っている 笑
ひとえに正装といってどのレベルのドレスコードなのか。カンヌ映画祭のドレスコードは厳格らしい。夜のガラ上映には取材のための報道陣も正装が必須。男性が蝶ネクタイってことは本気のイブニングドレスを着て行ったほうがいいのか。いやいや、スターでもあるまいしただ映画を鑑賞するだけなのに浮くのやいやだし...

ひとしきり考えた結果、ロングドレスはスターにまかせるとして、デコルテが開いたデザインの白シャツ、アルベールデザインの黒のミニスカート、ラメ入りのタイツ、それにタキシードジャケットを羽織っていくことにした。そしてシリルゴリ押しの黒パンプス。久しぶりのモノトーンコーディネート。くしゃくしゃだよ、とアイロンが下手なわたしの代わりにシリルが白シャツにアイロンをかけてくれる。ミニスカートでも大丈夫か一瞬不安がよぎったが、スターでもミニドレスを着ている人もいるし、というここでスターを引き合いにだす勝手ないい訳でいざ向かう。



現地に付き、招待状を手に列を並ぶ。同じように列に並んでいる周囲の人を観察してみると、男性陣はタキシードを着ている人と普通のスーツの人が半々ぐらい、蝶ネクタイが多い。見るからに若い学生の男の子グループもいて、その子たちは普通の棒ネクタイだ。女性はというと、思っていたよりも案外カジュアルなことに驚く。もちろんイブニングドレスを着ている人たちもいる。けれど、上品なワンピース、星付きレストランで食事というような装いの人たちも多い。実は自分のことは棚に上げて、なんとなく全体的に上品さがかける感じに少しがっかりした。イブニングドレスを着ているにもかかわらず、そのドレスは見るからに化繊、派手な原色ばかりが目立ち、なんだか下品でチープな印象。ワンピースの上に普段着の紺色のトレンチコートを羽織っている人もいる。と思えば、わたしたちと同じ席に座る招待客の女性は、結婚式の花嫁が着るような、もしくは舞踏会にでも出席するかのようなふわふわの裾の長いドレスを来ている。「主役でもないのにやり過ぎだね」的な周りのささやき声が流れていた。とても素敵なドレスだけれど、少し気合いが入り過ぎているかもしれない。
そして何よりもわたしを落ち込ませたのは、下着の線が原色の化繊のドレスに浮いている女性が多いことだった。ドレスアップすることとは自分が目立つより何よりも、まずは「下品ではないこと」というのが必須ではないのか。
先ほどの若い男の子たちのひとりはスエードの茶色のカジュアルシューズを履いていて、セキュリティの人に、「その靴は正装ではありません。本当なら許可できませんよ。今夜だけ特別に通します。」と注意を受けていた。男性の正装は女性と違って基準がわかりやすいだけに厳しいようだ。

ジュリアとあれやこれやと話ながら列で待ち、いよいよ入場という段階になって、入場のためにレッドカーペットを歩かなければいけないことを知る。なぜわたしたちがレッドカーペットを!!ジュリアも知らなかった。わたしたちの座る席はそこを歩いて入場するシートだったのだ。シリルがせっかくアイロンをあて直してくれた白シャツにはまたシワができているし、ジュリアと喋りすぎて口紅だって落ちてるかもしれない。まさかあの上を歩かないといけないなんて!




もうここまで来て、知りませんでした、別の入り口から通してくださいというわけにもいかない。はい行って、みたいな感じでレッドカーペットの脇に通される。
シャツがしわくちゃでも口紅が剥がれ落ちていても、とりあえずわたしなんて誰も見てない!と考えを改め、とりあえず背筋だけは伸ばして少なくともパンプスだけは綺麗に見えるようにだけを念頭において歩いた。ジュリアの腰に手を回し、アジア人とヨーロッパ人のレズビアンカップル風に。

ふと少し前を見ると、わたしたちの前を歩いている招待客の男女グループが「我こそはセレブリテなり」というように(ただのわたしの勝手なアフレコ)、階段の最上階で360度に歩き周り手を振っている。別の招待客の若い女性はイブニングドレスの裾を片手でまくりあげ、これもまた360度にポーズを決めている。そしてカメラのフラッシュ。わたしはそれらを見て、薄っすらと何か得体の知れない感覚を覚えた。レッドカーペットのど真ん中、途方に暮れるような感覚。
...この世界は一体なんだ。

ある視点

映画祭の仕組みは、ガラ上映会に招待されている観客がカーペット上をまず歩き、先に上映会場に入場する。そして最後に監督や出演者がカーペット上を歩き、先に会場内で着席している招待客が彼らが入ってくるのを迎えるというものである。このレッドカーペットは上映映画毎に新しいものに引き直される。すなわち1日3回お色直しされているのだ。

上映会場内のスクリーンには監督や出演者たちがレッドカーペットを歩いて入場してくる様子が映し出されている。かつての24時間テレビの芸能人のマラソンのように(今もまだある?)、そのままカメラとともに会場内に入ってくるのだ。

拍手とともに監督たちが迎えられ、22:30過ぎ、静かに映画が始まった。

「万引き家族」はとてもよい映画だった。終わると一斉に拍手が響き渡った。自然に立ち上がってしまう。会場を見渡すと全員が立ち上がり拍手をしている。スタンディングオベーション。監督や出演者たちは日本のおじぎを繰り返している。会話もなくただただ拍手だけが鳴り響き、それは情熱と感動の拍手というよりも、映画を通してわたしたちが共有した何か家族のような何か暖かいものを作者へ送り、そしてそれを一緒に共有するための拍手のように感じた。とても暖かな空間だった。

下をのぞくと監督たちがいる。

翌日、その夜の一部始終とそしてわたしが感じたことをシリルに話した。「招待客が主役でもないのにレッドカーペットを歩く意味がわからない。何者でもない人たちがレッドカーペットで得意げにしている様子と、周りにずらりと囲む報道陣、そしてわたし自身、違和感とある種の滑稽さを感じた。」というわたしに、シリルは苦笑しながら
「まあ日常で何度もする経験ではないわけだし、そのタピ・ルージュ(赤いカーペット)の上は演劇の舞台みたいなもんなんだから、その人たちみたいにそこで演じるのをめいいっぱい楽しむのもひとつだよね。まあそこを歩くからって実際に何者かになったように勘違いしていしまうのは滑稽だと思うけど。」

そして続けた。「僕は招待客がレッドカーペットを歩く意味はあると思うよ。フランスでは伝統的に礼儀を大事にするところがある。監督や出演者よりも会場に先に入るということは監督たちに花を持たせるということ以外に意味があって、大事なお客様を一番始めに扱うという表現になるんだ。レディファーストみたいにね。だってその招待客がコンペションの中でその映画を初めて見ることになるんだから。その招待客の反応も判定のひとつになるんだよ。途中退席した客がどのくらいいたか、拍手はどんな態度で送られていたか、スタンディングオベーションがあったらそれは何分間、どんな風に送られていたか、すべてが判定要素なんだ。その人たちに敬意を表す意味で招待客もレッドカーペットを歩くんだよ。もちろん盛り上げるショービジネス的な演出要素も多いにあるけどね w まあ出番のなかったあのパンプスをおろす機会になっただけでも君にとってはcoolなことじゃない?」

カップル風に。レッドカーペット上はセルフィ禁止w

そうか、わたしがあの赤いカーペットを招待客として歩くということには多少なりとも意味があったのかもしれないのか。そんなことなら、礼儀をもっと重んじるべきだったのかもしれない...。大きな舞台装置の一部。世界の政治的な意図も見え隠れする作品のラインナップ、役割を担う映画の祭典。大衆とセレブリテ。レッドカーペット上で感じた独特の空気に対する違和感はやはりぬぐいきれないけれど...

とまあ、いろいろ感じたり考えたりすることが多かったカンヌ映画祭初体験。ありがたく招待客として席をいただいたひとりの鑑賞者として、心から映画を楽しむことができたことと、あんな風に監督や出演者本人たちと一体の空間が味わえたことは何よりの経験だった。しかも樹木希林♡!!

翌日、前夜の万引き家族のスタンディングオベーションは約9分間であったことがインターネット上の記事に幾つか載っていた。"Un Certain Regard"(ある視点部門)に選出されているベルギーの「Girl」という作品は、涙を浮かべながらの観客によるスタンディングオベーションが約15分間続いたらしい。

発表が待ち遠しい。ジーンズとコンバースの日常に戻りながら。

愛しい日々の連続を♡


2018年1月7日日曜日

再開、エレガンス考2018

男友達に誘われたカウントダウンパーティに顔を出した後、友達が働くJOYAのパーティに参加する。もうその二件の梯子の時点でシャンパンとワインでかなり出来上がっている。そのままみんなで連れ立って美術館併設カフェのエレクトロイベントになだれ込む。ガンガンの音楽にテンションは最高潮に上がりもみくちゃになりながらも人と人との間の隙間で踊る。他人の汗とタバコの匂いも酔って鈍った嗅覚ではさほど気にならずにいられる。午前三時、「もう帰るよー」と周りの友達たちに引きずられるように会場を出る。あのまま朝まで踊り続けていたかった。アパートに帰り着き、シリルとふたりベッドにどさり。

久しぶりに踊り狂う

初日の出どころではない。新しい年に一日(ついたち)の朝があったかさえ記憶にない。どしどしSNSにあげられている知人友人の立派な新年の挨拶と抱負を、夕刻、西の空へと沈み始めた初日の出とともに、ソファに寝転がりながら読む。そして、愕然とする。知人友人のこの立派な様と比べてわたしは一体…


そしてソファに深く沈みながら初日の出が完全に沈むまで考えた。わたしの今年の抱負は何にしようか。

そしてうにゃうにゃ考えながら、ネットを流し見しながらなんとなく辿り着いた、ある人の書いたブログの文章を読んで、思わずほほうーと目を見開いた。その文章の中に怒りのエネルギーが充満している。書いてる本人の内側にある怒りを発散させてるような文章。読んでいて怒りの湯気がもうもうと浮き上がってきそうな気配。
そういえばわたしもフランスに住み始めた時、こんな文章を書いていたなとふと思う。日本のあり方に憤りを感じていた時期だったので、内容自体は日本のあり様に疑問を問いかけるようなものだった気がするが、内容自体が問題ではない。文章に怒りが溢れ出しているということは、書いてる本人の内側が怒りでいっぱいってことだ。怒りやら悲しみはひとつの起爆剤になり得るからそれをうまく使うのはひとつの手だけれど、人の目の前におおっ広げに見せる、すなわち他人に向けて発散させるのはエレガントではない。
ということを改めて認識した。

久しぶりのこの10cmの感覚に調子に乗りに乗る

フランスに住み始めて二年と半年。最近やっと肩肘張らずに生活できるようになってきて、ふと気がつくと言葉の面やら日常生活やらふいに直面する問題への対処やら、随分と色んな面で楽になっているのに気づく。

そしてふと、クリスマスのバカンス中、義母とふたりでお茶を飲みながら「自分が恐れているもの」について話していた時のことが蘇った。きっと自分はコントロールを失うことが恐いんだと思うと答えたわたしに義母が言った言葉。
「この世のすべては不変で相対的に存在し、起こり得る出来事は本当は誰にもコントロールはできないのよ。コントロールしようと必死になればなるほど、世界の成り立ちに逆らうってことだから自分で自分を不幸せにしてしまうのよ。」


怒りにせよ、過剰な自意識にせよ、他人に醜いものをぶつけるのはエゴに操縦されている証拠だ。不変に逆らうとガチガチに固まって動けなくなる。それはエレガントな行為とは真逆の状態。

踊り狂って迎えた2018年。お節ははおろか、お雑煮さえも作らずに日本人らしいこともまったくできず始まってしまった。それでも楽しくて幸せな始まりであることには違いなく、もう取り繕っても仕方がない。立派じゃなくても適当だってなんだって、時々毒づいたって皮肉めいたっていいから、とりあえずここはひとつ、ガチガチにこわばらないで、"肩の力を抜いたエレガンス"。今年はこれを研究課題にしてみようかと思う。

2018年もめいいっぱいの愛をこめて。
愛しい日々の連続を♡


2017年8月22日火曜日

月と浮遊感

あんたが山登り?!
山登りをしたとSNSに投稿した写真を見た、昔のわたしを知っている友人たちの揃いも揃っての同じリアクションのコメントに苦笑する。しかも結構な率でコメントの最後に泣きながら笑っている顔の絵文字がついている。笑われるのはいいけど、泣かれるのはいやだw


十年前のわたしは、自然なんてものに全く興味がなかった。7cm以上のヒールの無い履物は靴だと認めなかったし(本気で)、実際に、学生の頃履きつぶしたコンバース以外スニーカーを持っていなかった。中途半端に日焼けして黄色くなるなんてダサい、考えられないと、高校生の頃から徹底的にアンチ日焼けを約十五年くらい守り通していたし、そんなわたしを知っている旧友たちにとっては、今さら山登りなんて何があいつに起こったのだろうと、泣き笑いは自然なリアクションなのかもしれない。あの頃から考えると、わたしは180度といっていいほど変化している。


カフェを経営する友人とワインを飲んでいた時、カフェを売りに出そうと思っているんだとぽつりと言った。その店はわたしにとっては特に思い入れのあるカフェで、それを聞いた時全身に悲しさが込み上げてきた。同じようにその話を聞いた周りの人たちは「そうか...仕方ないね。」と落ち着いた反応をしている。「そんなのすごく悲しい!」とその友人の言葉をひとりだけ受け入れられないわたしは、周りの友人たちやそのカフェを売りに出す張本人にさえ、揃って「セラヴィ。仕方ないよ。」となだめられる。もういい年だというのに、ただひとり大人の中でぐずっている子供みたいだ。


初めての山登り、昔のわたしが見たら卒倒しそうな「運動靴」を履いて、岩しかない頂上に文字通り這いつくばって登った。足元の危うさと高さに足がすくむ思いだった。頂上の風を気持ちいいと感じるのもつかの間、無事に降りられるのかと早速心配になる。ちらりと隣を見ると、昨日まで連日の仕事でぐったりしていたくせにCyrilは水を得た魚、いや、解き放たれたばかりの猿のように嬉々として危うい足場を飛び跳ねながら登り降りしている。自然に囲まれて生まれ育った彼にとっては、ここは「恐さ」とは程遠い場所なのだ。夫婦なのにわたしたちはこうも違うのだと妙な気持ちになった。


あれだけ楽しみにしていた夏まっ盛りを迎えたというのに、途端にわたしは「お願い、お願いだから夏終わらないで」なんていう考えが止まらなくなる。日本にいた時はこんな風に思うことなんてなかったのに、あまりにも南仏の夏が好きになって、執着し始めている。今持っているものを失うのが恐くて先のことを心配して憂鬱になる。これじゃあ何のためにヨガをやっているのかw 全く学びが反映していない。Cyrilといえば、全く執着とは無縁の人で、いつだって足りていることを知っている彼の姿勢はいつもクールで、そんな彼を時々うらめしく思う。

ヴァニラみたいな無花果みたいな甘いいい香りがする花

「わたし海で泳ぐの大好きだし、ここの夏が大好きなんだけどさ、夏を満喫しているうちになんだか無償に秋が恋しくなるの。そうこうしているうちに秋が来て、すごくワクワクするのよ。」と、仲の良い生粋のニソワ(ニースで生まれ育った人のこと)の女友達が海辺でわたしに話した。ここで生まれ育った彼女たちは、新しいブティックやらレストランにももちろん目ざといのだけれど、それ以上に、昔からの行きつけのチーズ屋、食材店、洋品店なんかを大事にしていて、それを嬉しそうにひとつずつ丁寧にわたしに紹介してくれる。「口から耳へ」という言葉を揃って口にし、この小さいニースの街で、いいものは口コミで広がっていくのよと教えてくれる。


ふらっと立ち寄った夏のソルドで、気づいてみれば買い足したのは結局秋物ばかり。なんだかんだ洋服に関しては昔から秋服が大好きで、ゲンキンだけれども、こればっかりは秋の到来を楽しみにさせる。180度変わったと思う反面、1度さえも狂っていない部分も確かにある。

仲のいい友達の誕生日のホームパーティ、パーティも中盤に差し掛かると、主催の友人がジャズからエレクトロに音楽を切り替え最大に鳴響かせ始める。みんながサロンに集まりだす。重低音をガンガンに感じて踊りまくる。こういうのだったらわたしはそれこそ水を得た魚のようになれる。全く恐くない。超楽しい。またちらりと隣を見るとわたしほど魚度は強くないにしても、Cyrilも楽しそうに踊っている。セビアーン(楽しいねー)なんて言ってくる。なんだこいつは。これも楽しんでる。

この日友人宅の真新しい白い壁に赤ワインをバシャッとやってしまう

仲のいい友人たちがバカンスに出てしまって、街の中も地元の人より観光客の割合が多い8月後半。味気ない街を歩いている途中ふとなんだかさみしくなって、道の真ん中で時差も考えず日本の親友にスカイプをしてみる。もちろん応答するわけがない。パリの親友にも連絡する。彼女ももれなくバカンス中だ。それからいいタイミングで女友達からの誘があって飲みに出る。今まで知らなかった分かり合える部分があることを知ってお互い嬉しくなって、帰り道、ひとりなんだかほっとした気分になる。


誰もいなくなった夜の海で、背泳ぎをする。パンパンに膨れあがった満月手前の月があまりにも美しくて、泳ぐのも忘れてただただ見惚れる。なんだかんだ言って、わたしはこの海に浮かぶ感じが一番好きかもしれない、なんてふと思う。昔すり切れるくらいよく聞いたフィッシュマンズのナイトクルージングが、この海の浮遊感にシンクロして頭の中でふいに鳴り始める。ここの夏を堪能しつつも次に来る季節を喜んで受け入れていく秘訣を、いつかわたしも誰かに教えてあげられる日がくればいいな、なんて波に揺られながら考える。

愛しい日々の連続を♡