2015年11月17日火曜日

あることがきっかけで

実際のところ、今回起きたパリのテロ事件が起こるであろうことを知っていた、と書いたら驚かれるだろうか。
もちろん、いつどこでという詳細を知っていたわけではない。ただ早かれ遅かれパリでテロが勃発するだろうということは、以前から囁かれていた。


たくさんの人がフランス在住のわたしに安否確認のメッセージをくださり、たくさんの人が混乱していることがSNS上でもうかがえた。実際、わたしの胸中はとても複雑だった。個人的に、それは的を得ていないのではないだろうかと思う議論や意見を目にすることもあった。
だけど、こんな時一番控えるべきなのが、感情を高ぶらせること。むずかしいけれど、そうしないと、まさに計画通り、思うがまま。テロはある種の人たちにとっ て、ひとつのイベントに過ぎない。そこには奪いさられた人の尊い命以外の何物も残っていない。本当のところ、政治的意見や見解をSNSで拡散し過ぎることもあまり懸命ではないと思っている。それが真実であればあるほど。意見したり共有したいところだけど、そこはぐっとこらえて。もっと深く彫りさげて、正しい知識を蓄えることが必要だと思う。


そして改めて今回深く感じたこと、自分のブログなので、あえて書こうと思う。
無知は罪の一種になり得る。でも、無知な人を糾弾するべきではない。自分とてありとあらゆる面で無知なのだから。無知でなくなるための長い道のりの第一歩は、自分が無知であることを知ること、だと思う。


それでも、わたしの心から愛するパリの街で恐ろしい出来事が起きたことには、やはり少なからずショックを受けた。友人たちもいるので、心から心配した。知ってる人はいると思うけれど、わたしのパリに対する愛は深いのだ。憤りを感じないといえば嘘になる。
だけど今回改めて、このようなショックな出来事や心配事で少しでも動揺してしまう自分をまず、きちんとどしっと安定させようと思った。おそらくそれがないと これからやっていけないだろうと思う。(子育てや将来とかそういう自分の人生のこととは別の意味も含めて。)怒りや不安は何も解決しない。

模範を止め、自分の頭で考え、自分自身であること。
明るくあり、思いやり深くあること。


物質の世界はいつか終わりを迎える。
時間も空間も超えた永遠に続く祈りを。今は小さく感じても。
そして、愛しい日々の連続を。






2015年11月10日火曜日

フランスへ本帰国

3ヶ月ぶりに日本に帰ってきた。フランスに住むためのビザの手続きのための帰国なので、短期間の滞在。日本に着くなりすぐ東京のフランス大使館へ手続きしに行き、1週間以上はかかるだろうと踏んでいた予想を下回り、4日ほどでビザ付きパスポートが家に届く。
この3ヶ月のフランス滞在で、どれだけ日本 が生活する上で便利か、便利な生活雑貨に溢れているかを実感し、短期間の滞在にかかわらず、スーツケースは大量の本と便利グッズで埋め尽くされていった。

久しぶりに会った弟に、フランスで生活する上で”なにかにつけていちいち時間がかかること”や、”フランス人の段取り苦手なラテン気質にどれだけ振り回されるか”など面白おかしく話していたら、ポツリと弟がわたしに言った。
「じゃあさ、旦那さんと暮らすことを除いたとしてさ、結局のところ、フランスで生活する魅力って何なの?やっぱり日本のほうが何かと暮らしやすそうだし、フランスで暮らすって面倒くさそう~。」

おばあちゃん秘伝の塩昆布。これがなくては生きていけない 

実際、パリに住んでいた時もそうだし、今回のフランス3ヶ月間でもそうだったけど、「なんでいちいちこんな時間かかるんだ!」と叫びそうになることは、 何百回とあった。今回の短期日本滞在でも、ストや大幅な遅れ(←理由不明)の交通機関に煩わされることもなく、治安もよくて、歩道は足元に仕掛けられた爆弾を気にせず前だけ向いて歩けることに、いちいち感動していた。。フランスは歩道に犬の糞がいっぱい落ちているw
日本では街行く人の着こなしをみているだけで、あ、秋なんだななんて季節を感じることもできるし。フランスでは、着ているものはみんなてんでバラバラ、好きなように暑ければ11月だってタンクトップだし、水着で海辺に寝そべって日光浴だってする。
それから何より和食はやっぱり美味しいし。

色合わせやカタチなど、日本文化の美意識は素晴らしい。改めて。

でもひとつひとつ何かにつけて段取りよく、先回りしてオーガナイズされているものに囲まれていると、だんだんなんだか胸の上のあたりがキューっと収縮してくるのを感じた。段取りよく守備よく取り揃えられているということは、自分の知らない間に誰かが何かを先回りして考え、気を回して整えているということだ。 もちろんこれは本当にありがたいことだと思う。でも時々自分の行動の遅さにドキドキ焦ってきたりする。むしょうに、なんにも考えなくて手放しにいるような開放感をとてつもなく欲する瞬間がある。日本にいると、何か自分が失敗してしまったとき、その段取りをしてくれた人たちの期待を裏切ったような申し訳ない気持ちになってしまって、そういう時、あのフランス人特有の「C'est pas grave!」(全然問題ないよ~)をどうしようもなく欲するのだ。

湯豆腐に椎茸に小芋に菜っ葉に柚子...日本って最高!

便利グッズもあんまりないし、誰も段取りなんかしてくれないけれど、家を一歩でれば、フランスの街が持つ美しさに体をまるごとじゃぶっと浸すことができるような感覚は、何ものにも変えがたいと思う。フランスで生活していると、物質的な感覚ではなく、ある独特の美的な感覚が呼び起こされる。外見にお金をかけることと同じように、自分が歩いている空間、住んでいる空間、食べているもの、話す言葉、考えること、会話すること、色彩の感覚、街と調和することを大事にしたいと、なぜかフランスではより強く思う。どこにいたっておんなじはずなのに、なぜだろうか。

具沢山の家のお蕎麦が大好物

だからさ、結局のところ、フランスの魅力って何なの?
この問いかけは、わたしをわくわくさせた。まだまだわたしはこのことを人に説明できる明確な言葉を持たない。でも確かにある。こうなったらどっぷり浸かってそのフランスの魅力を体現してやろうじゃないか、なんていう思いがむくむくと立ち込めてきた。

Je t'aime maman

待ち合わせに遅れるのはやっぱり変わらないし、行き当たりばったりで行動しようとするし、先回りして何かを考えることを放棄してしまったわたしを、優しく見 守ってくれる日本の家族に、友人たちにこれまで以上に愛しさを感じながら、ひゅいーんとひとっ飛び、フランスに帰ろう。

気を回したり段取りすることをちょっと放棄したくなったら、いつでもフランスに遊びにきてくださいw
何かにつけて時間はかかるけれど、放ったらかしにしながら気持ちよ~くさせます(笑)
みなさんも、愛しい日々の連続を♡

Louの髪型が可愛いすぎて、10年ぶりに切った前髪で、抹茶。





2015年11月5日木曜日

月のリズム、祈り

実はここにこれを書こうかどうか心底迷っていた。けれど、書いてみようと思う。きっとまとまりはないだろうけれどw

きっかけはちょっとしたことだった。
2ヶ月前、引越しの朝。知人からこの日のために借りたバンに荷物を積み込み、ドアを閉める。親戚たちの笑顔で見送られて走り出す。好調な滑りだしで始まったキラキラの朝日に喜ぶのもつかの間。
高速道路に入ってすぐ、突然バンがみるみるうちに重くなり、止まってしまった。なんと車が故障したのだ。そこからなんとも連鎖反応のようにいろんなことが引き起こり、1日で終わるはずの引越しはなんと、2ヶ月近くかかったのだった。

実はわたしはこの出来事、つまり「車の突然の故障、引越しの初日の失敗」を乗り越えられずにいたのだった。普通なら「こういうこともあるよー」なんてどうにか流せるのに、わたしはその出来事が起こった瞬間からずっと、「なんでこんなことが起こるのだろう、あんなことさえ起こらなければスムーズにことが運んだはずなのに、何も悪いことなんてしてないのに、なんで、なんで、なんで」と、 その起こった出来事を受け入れられずに、ぐるぐると思考の洞窟にはまり込んでいた。


それでもなんとか引っ越しも済み、新しいアパートに入っていろいろ片付けている時に、高いところに置いたものが何かの拍子に床に落ち、大きな音をたてた。その音を聞いた瞬間、ボロボロと涙が溢れ出し、止まらなくなってしまった。
「車の突然の故障、引越しの初日の失敗」は、誰も悪いわけではなく、誰にでも遭遇し得ることなのだが、そんな出来事に偶然にも遭遇してしまった状況、その中に居た自分をかなり責めていた。

もしくは別のささいなことがきっかけで、わたしの感情は突然火を噴いたように高まり、嵐が起こった海のように波うち、その時突如湧いた怒りが体全体を電流のようにかけめぐり、夫にきつい言葉をむけたこともあった。そして言いながら涙が溢れ、止まらなくなった。そして涙がでなくなったあとは、言葉を発することも夫と目を合わすことも何もかもすべてが億劫になり、ただただ放心し、それでもなくならない怒りの固まりを心に感じたままだった。突如、そんな状態になった。

またある時は、他の人の無知な部分や、人の弱いところをを赦す(ゆるす)ことができないなんてこともあった。口には出さないけれど、内心では、馬鹿にして批判しているような強い気持ちの渦の存在を認めた。


わたしは3年ほど前から、自分の内側に目を向けるということに取り組んできていたつもりだったので、正直、自分にまだこんなにもコントロールできないネガティブな感情や反応があるのかと心底驚いた。今まで時間をかけて内面を見つめるということに取り組んできたというのに。
初めは生理前のホルモンのバランスの影響かなと思っていたけれど、そういうことがあったとしても、何か根深いものがあるからこんな反応にでるんだなと確信した。この2,3年、我ながら穏やかになったなー、なんて思っていたけれどなんのなんの。子供の頃からの心の在り様がまだこんなにも深く根付いているのかと、これはきちんと向き合って解放しなければいけないなと思った。
フランスに来て、古くからの民間療法のホメオパシーを知り、そこからFleur de Bach(日本語ではバッチフラワー)を知ることになり、ずっと続けている瞑想にも合わせて、それを生活に取りいれてみた。わたしにはこの花の自然療法はとても合っていたようで、始めてすぐに反応があった。それから少しずつだけれど、確実に、自分の感情や心の動きを客観的に見ることができるようになってきている。


落ち着いてくると面白いもので、答えにつながるヒントみたいなものがポンと手の平に落ちてくることがある。
知り合いのヨギー二の女性が、10月の満月の日はいろんなことを引き起こしてしまって散々だったよーなんて言っているのを聞いて、 もしやと思って調べてみた。ら、バッチリ。わたしたちの引越しの日は8月の満月だった。潮の満ち引きが月の引力と連動しているのと同じように、月の引力に加えて、満月の日は満月のエネルギーが満ちるので、人の体の吸収力が最大となって、いいものも悪いいものもよく吸収するのだそう。
引き込むエネルギーが強いから、ネガティブなエネルギーを出しているとあっというまに引き込まれてしまうんだよーって、その人が教えてくれた。満月の日は出産率も高いし事故の確立も高い、そういえばそういうことは昔から言われている。
それで納得がいった。引越しの日のこと(笑)。我ながら単純だとは思うけれど、ちょうど3ヶ月前からシュタイナーに興味を持って色々調べているので、月の影響力の関係にも繋がって、そっかー、月の力って改めて凄いなって、それなら仕方ないなってw


で、月のことを考えていたら、祈りと願いの違いについて気になってきた。
「欲望から出る願いはぜったいにしてはいけないよ、それは一種の魔術だから」って、ある人が最近言っていたのが気になっていろいろと調べてみた。例えばわかりやすいところでいえばお金が欲しいやら仕事で成功したいやら恋愛成就などは欲望がバッチリ絡んでいる。そういう願いは必ず他の人の不幸が絡んでしまうらしい。知らないうちに魔術を使うことになるということ。巷で流行っている引き寄せの法則なんかも、悪気が無い人が大半なんだろうけどあれも魔術の一種。
そういえばキリスト教ではありとあらゆる魔術の使用を禁止している。占いなんかにしてもそう。
もしその人に、何か特別な力があったのなら、例えば人の未来が見えるもしくは占えるとか、自分の体を通して人を治癒できるとか、透視ができるとか、魔法が使えるとか。その力は特別に与えられたもので、与えられた使命のようなもの。その特別な力をどのようにして他の人を助けるのに役立てるかを、探さなければならない。そして、与えなければならない。
だから決してその力をお金と引き換えにしてはならないそう。その力も与えられた使命も、いつしか消えてなくなってしまう。
もしそうなら、ひとりひとり、実は個々にそれぞれ素晴らしい力が備わっているのではないだろうかなんて考える。それなら必要なのは、その力を最大限に伸ばし、周りに与えること。
それから、願うのではなく、祈ること。


ってな風に、わたしの考えることはどんどん四方八方に広がり、結局まとまりを欠くw なんかオカルトチックになってきたなー(笑)
ちなみに昔からしつこく言っているけれど、わたしは自分教以外にハマっている宗教は、ない。
まあとにかく自分のネガティブな部分の解放と、自分に与えられた能力を最大限に伸ばしていこうということ。
仏教での内観っていうのをよく聞くけれど、自分を客観的に見つめること、ネガティブな部分を認めて解放してあげることは、簡単ではない。でもそれは他の誰かができることではなくて、自分が自分にやってあげるしかできないこと。もしイライラしたり自分以外に対するどうしようもない怒りが自分の中にあったら、それは愛しい力で癒す必要があることだと思う。自分のそういう弱い部分に気づいて認めることができたら、あとは大丈夫、解放する方法は不思議と目の前に現れる。欠けていると感じていることも、満ちていることと同じくらい愛しいことだ。
それからそれと同じくらいに、自分にも自分だけの素晴らしい力が備わっていることも知る必要があるのだと思う。
そういうことを、心の底から応援する。大切な人すべてに祈る。

少しずつ。月の力を借りながら。
それから、自分の弱い部分をまるごと愛してくれる、隣に居る愛する人へたっぷり感謝をしながら。
みなさん、愛しい日々の連続を♡
月のリズムを感じて。






2015年10月8日木曜日

深い関係、光の重なり、変化

うっかりと本の世界に引き込まれてしまい、あるいは、すっぽりお尻を包み込むひとり掛けのソファとうっかり深い関係になってしまい、気がつくと窓の外はもう薄暗い。思いがけずカフェに長居をしてしまった。急いで勘定を済ませ、外に出た。


ぼってりと空全体を密閉している灰色の雲。肌寒さを感じ、シャツの襟元を寄せる。今にも雨が降りそうで、家路を急ぐ。帰宅時のラッシュだ、あちこちで車のクラクションが鳴り響く。
同じように家路を急いでいるのか、早足で歩く若い男がわたしを追い越した。追い越し際、その男が吸っているタバコの煙がわたしの顔に触れる。
その瞬間、時が止まった。何か強烈な記憶の気配が瞬時に体を包み込んだ。
そしてその感覚の懐かしさに、クラクラした。


曇天の空、肌寒さ、タバコの煙、クラクションの喧噪、灰色のグラデーションに包まれた街。南仏の青の街を沈ませ突如浮き上がったモノクロームの空間。
それは身体に染み込んだParisの記憶。

永遠を感じさせる存在と静けさの音色は、完璧な調和を。
控えめな太陽も妖艶な月も、その軌道をめぐり
光も力もその場所にある。
瞬間、毎時、すべてがそこにある。
光が宿っている。


ここ3日間、自分の中で、何か少しずつの大きな変化を感じている。
大きくバランスが崩れ、自分でもコントロールできない何かが動いた。
自分が今まで克服できなかった内側の固い塊の存在を再認識し、それに面と向かっている。いよいよそれを溶かし始める時、始められる時が、きたのかもしれない。


変えることができないことについては平穏にそれを受け入れる恵を。
変えるべきことについてはそれを変えてゆく勇気を。
そして、その二つを見分ける知恵を。
(The serenity Prayer より引用)

そばにいてくれる愛しい人への愛を。
そして、愛しい日々の連続を♡







2015年10月1日木曜日

イチジクの色気に自由を隠す

フランス人はお喋りだとよく言われるが、よくもまあ次から次へと口が動くことだと今まで何遍思っただろうか。わたしの夫もやっぱり、よく喋る。
喋るとひとことでいっても、内容はたわいない雑談に始まり、政治、哲学、思想、いろいろあるけれど、世間話をする”喋る”というものから始まり、意見を交換する”話す”という類いまで。話す、話す、話す。
もはや今わたしにとっても、それはなくてはならないものになっている。
とにかくわたしたちは、いろんなことを話す。


彼が仕事から帰ってきた夕方。まだ空は明るく夕飯の支度にも早い。ちょっと外を散歩しようかと外に出る。アパートの扉をバタン、鍵をガチャリと締める。短い螺旋階段を静かに降りる。中庭でタバコを吸っている階下に住むリュシアンと挨拶を交わす。大きな緑の扉を開けて外に出る。

そういえば、読んでたインド哲学の本、もう読み終わったの?どうだった?
わたしたちは話し始める。教会の鐘がなる。2つ目の角を左に曲がる。Rue Bonaparte(ボナパルト通り)。フランス人はこの道をナポレオン通りと呼ぶ。夫もそう呼ぶ。この通りに好きなカフェが手前に1件、奥に1件。最近は奥の方が気に入っている。彼のお父さんがくれたいい香りのろうそくについて話ながらテラスに座る。あの香りはもうアパートの部屋から消えないよ。それくらいずっと嗅いでたい香り。
ノワゼットを2つお願いします。


何を話してたんだっけ。そういえば人が何かの意見に狂信的になることについてなんだけどさ...etc
ここのノワゼットには手作りのクッキーがひとかけら付いている。それが美味しい。そのクッキーをノワゼットにひたしながら話を続ける。
デモの代表に学生がいつも使われるという偶然の(!)歴史について、誰が法案を通したいのかについて、自分の憧れの女性が実はそんなに知性が深くなかったと気づいたときどうするかということについて、仏陀とキリストが言ったそれぞれの言葉の表現の違いについて...etc

まだまだ話し足りなくてわたしたちはカフェをお代わりする。
で、何を話してたんだっけ。そうそう、可愛い小物を売るという行為について、消費について、それからおととい買ったイチジクの色気のある甘さについて...etc


4杯分の小銭を置いて、席を立つ。Merci! Bonne journée!
今日履いている靴の色について話しながらまた歩き始める。
電子音だらけのエレガントからかけ離れたファッションショーについて、道でよくすれ違う整形をたくさんしている男性について、ナルシズムと外見と精神の歪みについて、リズム感の無い人の踊りについて、わたしの大いなる偏見と反省について...etc
ここまで話していると随分遠くまで歩くことができる。とくに目的地があったわけではないので折り返す。


先週買った家具の色について、犬の糞に対する法律について、アマデウスについて、決まり事の無意味さに気づくことについて、なぜ世界は現代アートを根付かせたかについて...etc
ちょっとここに寄ってもいい?ズッキーニを買っておきたいから。
あ、パンも買おうよ。香ばしい匂いを抱いて、また歩き始める。
友達から届いたメールの内容について、妄想と現実について、作り込まれた現実について、管理下の世界について、海岸沿いを走る気持ちよさについて...etc


街中は音に溢れかっている。店でもカフェでも通りでも。わたしたちは大きな声で相手に話しかけなければならない。
わたしたちの耳に大きな音で鳴り響く電子音は必要だろうか?
それは本来ある何かをかき消すためのものなんじゃないだろうか?
いろいろな物事の本来が持つ本当の意味を取り戻したい。

気づいたらアパートの建物、緑の扉の前。中庭を通り短い螺旋階段を登る。
リュシアンが中庭でタバコをくゆらせながらワインを飲んでいる。Bonsoir!
鍵を開けて部屋に入る。


窓を閉めカーテンをひく。ろうそくつける。パチュリの香りが広がる。
裸になって布団にもぐりこんでも話している。
ひとりひとりがするべき内側のことについて、場所の空気と自分の肌が混じり合うことについて...etc

わたしたちは話すことを止めない。わたしたちにはまだ話す自由が残っている。
寝て、食べて、それからの続き。
本当の自由のために。愛のために。

愛しい日々の連続を。








2015年9月17日木曜日

目の前にあるもの

わたしの目の前には扉があった。
深い緑のペンキ、朽ちた木の気配。
時間の経過が放つすえた匂い。


南仏の日差しはどんな時間でも正面から照りつける。
ついうっかりサングラスを忘れると、その日一日中日陰を探して歩くことになる。

アパルトマンの建物には共同の小さな中庭がある。
誰がどのような権利で管理をしているのか知らないが、住民が思い思いに持って来た観葉植物が中庭のふちを囲い、真ん中には小さな木が植えられてあり、その脇には椅子とテーブルが置かれている。


誰の趣味か知らないが、この建物のあちらこちらに、海辺で拾ってきたであろう手のひらサイズの色とりどりの石が転がっている。
中庭の木を囲むようにその石が綺麗に並べられているし、共同のごみ捨て場の角にも幾つか並べられている。

このアパルトマンに越して来た日、雨戸を開け部屋から中庭をのぞこうと窓を開けた時にも、窓のふちに並べられた石たちと目が合った。
 

建物には直接陽が入らないので、真夏でもひんやりとしている。薄暗い共同の廊下をひたひたと歩き、正面玄関の思い扉を開けると、突然強い光が目を射す。
越してきて二週間、ここの暮らしにも少しずつ慣れてきている。
ひたひたと廊下を歩きながら鞄をごそごそ。
玄関の扉を開ける前にサングラスをかける。 

今日もわたしの頭上には突き抜ける濃い青があった。

カルダモン、クミン、シナモン、ジンジャー、スパイスで始める朝


フランスで生活を初めて2ヶ月。新しいアパルトマンへ引っ越して2週間。
新しい食べ物や面白い場所に出会って嬉しかったり、
自分のフランス語のレベルにため息をついたり、考えたり感じたりと
体はフル回転でぐったりする時もあるけれど、この街の美しさの匂いと空の青を栄養に、深く呼吸をし始めました。

親友が夢に出て来たので、その朝の朝食はネイティブアメリカン風 

ニース、素敵な街です。
愛しい日々の連続を♡






2015年9月9日水曜日

美しさに宿る力

フランスには必ず公共の場所に芸術作品が置かれている。
これは国の取り組みで、芸術家たちを支援するための政策のひとつなのだそうだ。公共の空間に設置される芸術作品のことを、パブリックアートと呼ばれている。「公共的な芸術」。最近気になることがあるので、ちょっとパブリックアートについて調べてみた。

wikipediaには、
”パブリックアートとは、設置される空間の環境的特性や周辺との関係性において、空間の魅力を高める役割をになう、公共空間を構成する一つの要素と位置づけされる。”と説明されている。

ニース市外の中心に位置するPlace Masséna(マセナ広場)
コートダジュールの空の色と、ニース独特のイタリア建築の建物の色を
開けた空間の中で体感できる場所。

wikipediaの説明をどこまで正しい定義として扱うかということももちろん考えなければいけないけれど、”設置される空間の環境的特性や周辺との関係性において、空間の魅力を高める役割をになう”というところは市民にとって重要なことではないだろうか。

わたしはここフランスで、公共空間に設置されている芸術作品に対して個人的に疑問を持っている。はて、この芸術作品たちはこの自然景観と調和しているのだろうか?「空間の魅力を高める役割」からかけ離れているのではないか?と疑問を感じるのだ。

そのマセナ広場になんか変なものが。
街灯かと思ってよく見ると、

彫刻家ジャウマ・プレンサ(Jaume Plensa)によるパブリックアート
全部で七体

20世紀後半から、芸術は美しさを最大の価値とはしていないのは明らかだ。現代アートは、美しさではなくある種のショック、刺激を鑑賞者に与えるものが多い。あるいは作品を前にして、「これは一体何なのか?」と疑問を鑑賞者に彷彿させるもの。大まかな定義では、現代社会の情勢や問題を反映し、美術史や社会への批評性を感じさせる作品のことを現代アートと呼ぶらしい。現代アートを全面的に否定するつもりはないが、パブリックアートにおいて最近いくつもの問いが頭をめぐるのだ。

長い歴史の中で芸術とは、人間の創造を超えた美しさを表現する、そしてそこに宿る精霊のようなものを伝え残すものではなかっただろうか?
なぜ”美しさ”から距離を置く必要があるのだろうか?たとえ”美しさ”に価値は置かずとも、反対の”醜さ”を氾濫させてるのではないだろうか?

夜になるともっと酷い。
街灯の明かりを無視して、ディズニーランド化

美しさや醜さはもちろん個人的な感情、主観に因ってくるので、普遍的な定義はないのだし、両者はそれぞれ個人的主観、社会の構造などで変動することもある...

なんてこむずかしいことは美学やら芸術学やらの専門家の何百枚の論文にまかせるとして、フランスで目にするパブリックアートに本当にいつもがっかりさせられているので、ここで鬱憤をはらしたいだけのことw

フランスでは歴史的なモニュメントや広場、場所で、多く、”醜い”現代アートが設置されているのを目にする。”醜い”というのがわたし個人の感情からくるものなのであれば、言い直す。その場所に居る人に何かしらのショックを与えるもの、設置されている周りの環境から浮き出ている存在のもの。
これらを目にする度、これはもともとの自然景観の美しさを破壊しているのでは?と感じるのだ。もともとそこに在るだけで美しい、例えば何百年も存在する歴史的な建物や広場の前に、ショックを与える奇異な現代アートは必要なんだろうか?それを設置させることで、人々が美に対する考えを知覚し直すための挑戦?そんなこと、少なくともわたしは望んでいないし、もしそうならそんな挑戦個人的に勝手にやってくれと思うのだ。こんな作品、この場所に無い方が景観は美しいと感じるのはわたしだけだろうか? わたしたちの趣味嗜好は十人十色、万別なので、特殊なものや奇異なものは個人の所有空間に設置する、もしくは個人が携帯するだけではだめなのだろうか?

わたしが今のところ見た中で一番ひどいと思うパブリックアートは、マルセイユにある。
道路のロータリーに突如出現する、セザール(Cesar)による巨大な親指

とはいえ、わたしも学生の頃、訳もわからず現代アートかっくいい!なんて思っていたし、あの頃なら、遊びがあっていいんじゃない?なんて公共の場所に出現する変なものもアートだわなんて思っていたに違いない。
年をとっただけなのかもしれない。
それでも最近、物質で溢れる現代社会で、昔からあるさまざまな価値観は徐々に、正反対の意味することを示していっているのではないかと感じるのだ。美しさの価値もそうだと思う。よく昔から、人は内面の美しさが外見に現れると言うけれど、わたしは、美しさには何かスピリチュアルな力があるのではないかと感じている。その美しさの代わりに反対の醜さへ価値を置くことで、そこに宿る力が減少する。人々を散漫させるには、美しさから遠ざけ、醜さや汚さの中に放り込んだら、都合がよさそうだ。偉大なパブリックアートの前を通る時、わたしの頭にはいつも「裸の王様」の寓話がよぎる。

美しさに宿る力を取り戻したいなと感じている。

変な写真ばっかり載せて好きな写真を載せられなかったので、フラストレーションがたまるw ので、最後に全然関係ないけれど、家から5歩歩いたところにある内装が超好みのイタリアンレストランの写真と、最近ハマりまくっているビオスーパーのラビオリ。リコッタとほうれん草だとか、セップとチーズだとか最高の組み合わせがたくさんあり。手抜きが癖になってしまう!




美しさは特別なことをしなくても、多分いつもすぐ目の前に広がっている。
愛しい日々の連続を♡