2019年8月28日水曜日

変容。流れているもの

何万年ぶりにこのブログを更新する。書いては消して、書いては途中で止めて、っていうのを何回も繰り返していたこの長い間。もしかしてこの文章もまた途中でやめてしまうかもしれないのだけれど。

約4、5年間続けていた菜食主義を今年の5月頃、やめた。やめたんだ、というと報告する度に、ほぼ友達全員に「ブラボー!」と喜ばれる。さほど仲良くない知り合いにもハグをされるほどだったりする。菜食主義ということでわたしは周りの友達にどれだけ迷惑をかけていたんだろうか ww


やめた理由は、自分が信じていたもの、少しでも良い方向に何かを変えられるかもしれないというものが、実は一点方向からの視点でしか物事を見れていない、矛盾がたくさんあるのだということに気がついて、それに納得したから。菜食主義になることを決めたのは日本に居た時で、日本の生活の中で決めたことだったから、フランスの、特に南仏の生活をもう少しで4年目になろうとしている今、自分の視点が変わったのだと思う。だけど、自分の信じたことを5年間結構ストイックに続けてみて良かった。菜食主義を止めたからといって、手当たり次第肉や魚を食べるわけではやっぱりない。でももし日本での生活を続けていたなら、多分菜食主義であることを選び続けているのではないかと思う。わたしは卵も乳製品も摂っていたからヴィーガンではなかったけれど、フランスの中では英語圏の国の影響ですごくヴィーガンはブームになっている。けれど、ブームになればなるほど、そこに矛盾や疑問、違和感を感じるようになった。
菜食主義になった時もだったけれど、それを止めた今も、鈍感なのかわたしは体の変化はとくにあまり感じていない。唯一、穀物が多くなる菜食生活でやはり消化の面で腸に負担をかけていたなと感じるので、そこは大きく違う点。腸は大事だから。



わたしの仲の良い友達たちには、日本語の「いだだきます」の意味を伝えて、フランスではよく「ボナペティ」と訳されたり同意語として伝わったりしているけれど、全然意味は違うんだよということ伝えて、今では仲良い男子も女子も友達の子供達も結構綺麗なアクセントで「いただきまーす」とご飯を食べる時に言ったりして、その普及はかなり成功しているので、わたしはそのことを嬉しく思う。
遠い外国から輸入されたものを食べるよりも、近くで友達の友達とかが生産している季節のものを自分で料理したり、はたまた腕のいいシェフ友達たちがそれはそれは美味しく料理してくれたりして、それを「いただきます」を言って食べる。で、時々遠い国のショコラとかカフェもめいいっぱいうふふと楽しむ。それはわたしのこのフランスの生活にとても合っていると思う。変わるといいなと思っている外側のものは、決して極端な選択から生まれるものではないなあと思うのが今日この頃。
菜食主義を、あ、やめようーと思ったのは、大好きな人がホイと口に放り込んでくれた、料理のフライパンにこびりついた、でも一番美味しい部分のカケラがわたしの体内に入って、その瞬間自分の内側に言葉には言い尽くせない至福の欠片みたいなエネルギーが作用したから、だった。


何回も途中で面倒くさくなったりして挫折していたフランス語で書かれた本を、この間旅行中の列車の中でぐんぐん進んで、読み終えることができた。途中物語に感情移入して涙がボロボロ出てきたりして、最後ついに本を読了できた時は、ああ、やっと大好きな本たちをこのフランスの国でも心底楽しめるようになったと最高に嬉しかった。いろんな面で全く前に進めていないんじゃないかなんて落ち込み気味だったけれど、小さくてもやっぱりよい方向に変化している。



週一回働いているコーヒーショップで一緒に働いているKとは、仕事中何度本気の言い合いをしたかわからない。ゲイのトーンでキーキーうるさいし頭に来るからこちらもついきつい言葉を言ってしまう。それでも結局いつもハグをして仲直りをして、好きな音楽をガンガンにかけてふたりで踊ってそれですっかり発散。そういえばこんな付き合い方をする友達も初めてだと気づく。ニースが好きじゃない彼は、もうすぐ好きな街リヨンに彼氏と一緒に引っ越しする。それが嬉しくてしょうがないので「あんたもニースで年老いたくなんてないでしょ、早いとこパリに行きなよ。」と顔を合わせる度に憎まれ口を叩いてうるさい。ずっと一緒に働けるかもなんてもちろん思っていたなかったけど、やっぱり変化の時は寂しさも伴う。時々Kには本気でムカつくけれど、彼と会えなくなるのは寂しい。この間「リヨンに会いに行くから泊めてね、あんたたちの真ん中に寝させてくれる?」と聞いたら、もちろん泊めてはくれるけれど、真ん中に寝るのは断られたww


8月のバカンスど真ん中に仲いい女友達と訪れたパリ。さすがにパリ好きとはいえ、この時期パリの友達たちはもれなくバカンスでいないし、店も閉まっているところが多いし、どうせ観光客だらけだし、なんて、別にわざわざこの時期に行くのもなーと思っていたのだけど、結局ふたりして観光地ではない場所ばかり結果的に選ぶので、道も空いているし、居残り組のパリジャンたちにいい店を数珠つなぎに教えてもらったりして、時間に終われず美術館を楽しんだり、十年越しに行きたかったレストランに偶然行けることになったり、結局かなりのんびりパリを満喫できた旅だった。教えてもらったカフェの居心地がよすぎてだらだらふたりして何時間も本読んだり、夕食後夜の12時まで開いている好きな本屋で何時間も本を眺めたり、突然思い立って映画を観に行ったり(ザ・フランス映画な、変な映画だった。)、その場に流れているものがすごく愛おしい、心底楽しいと感じられた旅。流れというものが自分の足元に存在しているのがわかる。それがいろんなことに繋がっているのをなぜか感じる。


小さくてもどこかで感じている違和感を少しずつ紐解いていく作業を続ければ、いつしか自分の好きなものとかやりたいこととかそういう自分の大切にするものが見えてくる。その作業は時々苦しさを伴うし、かなりの集中力を要するけれど、自分が本当に大切にすることがわかるほどいいことはないんじゃないかと思う。そうすると、あ、違うなと思ったものはさくっとやめることもできる。

流れはもう存在していて、それにふわっと乗っかるものなんだなー、とそんな考えが今日海に浮かん出る時にふと改めて頭に降りてきた。

変容。このところのキーワード。
流れを楽しむ。

愛しい日々の連続を。