2014年12月11日木曜日

味覚のフェチズム

わたしはなぜかよくわからないけれど、10代の頃から香味(?)が気になって気になってしょうがなくて、高校卒業したあたりから、シナモンから始まり、コリアンダー、カルダモン、バジル、オレガノ、アニス、クミン、ローズマリー、ナツメグ、タイム、セージ、etc... スパイスとかハーブとかの味にどっぷりはまって、きゃつらの虜になってしまって、今に至る。今はもはや自分で料理を作る時に、使わないほうが不自然になっている。おそらく、そういう味覚のフェチなんだろう。

そもそも人の味覚の趣味って何きっかけで、いつ形成されるのだろうか?


祖母のきんぴらごぼうとか、筑前煮とか今でも大好物で、いたって普通の日本家庭料理で育ってきている。今でも和の味は大好きで、納豆と、祖母の作った塩昆布で米を食べている。
だけど、何か適当に自分だけの晩御飯とか、好きに作る料理なると、その時食べたいものを炒めたり蒸したりして、例えばクミンと塩・胡椒で味付けをする。クミンさえあれば万事OK!と言っても過言ではない。

で、例えば、まだあんまり仲良くないくらいの人と普段作る料理の話とかになって、よく、「えー、オレガノ?ローズマリー?お洒落ー!」とか言われて、心の中で、あー、お洒落とか、そういう領域の話じゃないんだな~、あらま、ちょっぴりめんどうくさいわ、オムライスしか作らないって言っときゃよかった的な感じになる。わたしの中ではオレガノもわさびも同じくらい、もう本当に普通の、そして必要な味覚なのだ。
好きになった強烈的なきっかけとかも、おそらくない。ただただ自分にとっては自然な味覚で、もともと塩辛いのが極端に苦手なので、どちらかというと醤油とかがちょっと苦手だったりする。モチモチした食感が苦手なので、お餅も、白米もあんまり好きじゃない。

で、そんなんだから、過去の彼氏たちに料理なんか作る時、せっせこそういうスパイスだのハーブだのを使った料理を作ってたんだけど、あんまり喜ばれた記憶がなかった。日本人男子は和食が好きなのだ。(当たり前か。)それで、和食が食べたいといわれるので、それじゃあ作りましょかって作ってきたんだけど、途中で気づいたのだ。和食、食べるのは大好きだけど、自分で作るのはそんなに好きじゃないってことに(笑)。和食特有の絶妙な味加減のむずかしさとか慣れの問題ももちろんあるんだけど、なぜか自分の中でしっくりこない何かがあったのだ。

で、うすうす感づいていたものの、20代後半くらいで、遅ればせながら気づいた。
”もしかしたら、わたし...味覚の趣味が変わってるのかもしれない”
...


でも、不思議なことに、結局は味覚の合う人が周りに集まる。そして一緒にいるので、どんどん助長し合ってますます突き進んでいくのだ(笑)
恋人はフランス人なので、もともとがハーブとかスパイスの味覚の国で育っている人。だからわたしの味覚を「変」だとはとらえずにいてくれている。そうなると、料理をするのが楽しいのだ。
わたしの親友は、何故かカレーが大好きで、彼女がひとり暮らしの頃はほぼカレーしか作っていなかった。スパイスからカレーを作ることが本気すぎて、そして彼女の作るカレーが美味しすぎて、カレー屋をしろと色んな人から言われている。彼女の作るダルのカレーとか、辛くて美味しすぎてもう、食べた人みんな虜になっている。本当に彼女が店をしたら流行るんじゃないかと思う。

うまいことできている。変なやつにはそれに合った人に出会うのだ(笑)。

結局のところ、食べるものが自分の心と体を作っている、と思うので、「食べること」は大事にしたいし、一緒にいる人とは「味わうこと」を大切にしたいと思う。


最近「食べること」に対していろいろまた考え始めている。何を食べるのか?何を食べないのか?当たり前のように目の前に差し出されるものは、果たして自分にとって本当に必要なものなのか?それとも本当は必要でないのではないか?本当に好きなのか?それとも、好きだと思っているだけなのではないか?
食べ物に限ったことでない。疑問を持って自分で答えを探すことが必要だと思う。ストイックになり過ぎる必要はないと思うけれど、麻痺されて思考がぶよぶよになったまんまはよくない。本当の意味で”気持ちのいいこと”を自分で探すことが大事だと思う。
 
で、30代にも慣れてきた最近は、自分の「変さ」を正面から認めて、開き直りながら、こんなわたしと一緒にいてくれてありがとう、と周りの人たちに感謝している♡


あ~、でもこんなに寒い日はおでんが食べたい!

好物セット


2014年12月4日木曜日

Paris 私的回想録 - 完璧なメトロの降り方-

黄色のMの看板が目印。Parisの街ではその看板の下に地下への穴が開いている。階段を降りる。とたんに、洗剤と尿と何かシミックな花の香りを混ぜたような、酸の効いたそれでいて甘ったるい独特の匂いが鼻をつく。切れかけた蛍光灯のギリギリと鳴る音。半分剥がれた両側のポスターの間を歩く。改札のランプの上にカードパスをかざす。ひと気の少ない構内にビーと機会音が響く。ホームへの階段を小走りで降りる。ホームの電光掲示板を見上げる。あと何分でこの駅にメトロが到着するかの数字が目に入る。とにかくこの数字ほどあてにならないものはない。
車体がホームに到着する。もちろんアナウンスなどない。鉛色のハンドルに手をかけ扉を開ける。勢いよく扉が開く。
メトロの中に足を踏み入れると、今度は体臭と埃を交ぜた匂いに包まれる。席が二つずつ向かい合うボックス型の四つ席の通路側に座った。
隣には黒人の若い20代前半くらいの男が座っている。チャコールグレーのパーカーと黒いジーンズ。ジーンズはもう何年も履き続けているのだろう、色落ちしてパーカーと同じような暗いグレーになっている。その向かいには鮮やかなスカーフを頭に巻いたお尻の大きな50代くらいの黒人の女が座っていた。
一駅ほど過ぎた頃、女が自分の手提げ鞄からちり紙を取り出して、向かいの若い男に手渡した。男の方を見ると唇が乾燥して血が出ていた。男の肌の色もパーカーもジーンズも墨色のグラデーションだったので、その血の赤は男に似合っていた。
男は「Merci. ありがとう。」とぼそりと言い、ちり紙を受け取って唇の血を拭い取った。「De rien. どういたしまして。」とスカーフの女は小さくウィンクをし、お尻を揺らし次の駅に着いて車内から降りて行った。若い男は下を向いたまま、血のついたちり紙をジーンズのポケットに仕舞い込んだ。


その日の帰り、また四つ席の通路側に座っていた。白いマフラーを巻いた5歳くらいの金髪の女の子とその母親が乗ってきて、向かい側に座った。女の子が母親に何か耳打ちをすると、母親が笑って鞄からビスケットの袋を取り出し渡した。女の子は袋を自分で破き、チョコレートでコーティングされた四角いビスケットを食べ始めた。
ひと駅過ぎた頃、突然その女の子が口に手をあてえづきだした。そして、見る見るうちに首に巻いた白いマフラーの上にはどろどろチョコレートが流れ込み、ハンカチを出す余裕がなかった彼女の母親はもう仕方ないとばかりに、その白いマフラーで女の子の口を必死にぬぐった。女の子の白い頬も母親の白い手もチョコレートまみれになっている。

ここ。ここの瞬間で。鞄からちり紙を出す。そしてさっと手渡す。
ウィンクをして、席を立つ。ちょうど目的の駅に着く。鉛色のハンドルに手をかけ扉を開ける。列車が完全に止まる少し前、リズミカルにトンとホームに降りる。

これができたら、もうParisのメトロは完璧。





2014年11月11日火曜日

つながること、つながっていること

だいたい2年ほど前、今まで「自分だ」と認識していたものを超えた自分の中の存在に触れてから、自分の中でいろいろな物の見方が変わってきた。自分がそれまで認識していた世界には枠があったということを知ると、その枠の外側にあるものたちが見え始めた。そのものたちは以前からすでに存在していた、同時にそれは自分も本当は随分前からそのことをすでに知っていたということも認識すること。
その存在たちとつながっていることをもっと深く知りたい。体にすでに蓄積されているその遠い記憶はいったいどのようなものなのか。
1年くらい前、恋人とふたりでとりとめもなく話をしていた時、彼にそういうことを喋っていたと思う、彼がふとわたしに「君の考え方はヨガとか仏教の考え方に近いような気がする。一度勉強してみたらきっと面白いと思うよ。」と言ったことがあった。


なんとなーく彼がわたしに言ったことが頭の中に残ってはいたが、その時はまだピンとはきていなくて、ヨガ?仏教?はて?だった。それから何ヶ月か経ってから、このブログに身体のことと自由のことについての記事を書いた時、その記事の内容について、わたしが個人的に大好きな素敵な知人が「わたしがヨガで理解できたこと。修行せずにすごい。」というコメントをくれたことがあった。その知人はヨガの先生で自分のヨガ教室を持っている。
わたしはヨガを学んだことが一回もなかったし、子供の頃からひとりでに感じていた感覚とか考えていたことをようやく自分の中で人に伝えることができるような言葉で文字として表現してみただけのことだったので、そのコメントにはびっくりした。

大切だなと感じていることは、気を整えること。自分の内に眼を向けてそれから愛でること。意識を内から外に拡大して、自分自身を至福の状態に保つこと。それをするには瞑想とかはとてもよい方法だと思うし、ノリにのればわたしは散歩しながらでも人と話しながらでもそういう状態になることができる。というか、その状態の自分が普通の状態になってくる。もちろんドラッグも道具も新興宗教も、何にも必要なく。
それから、”自分に必要なものは必要な時に必ず手に入る”、そんな自然の摂理さえ知っていれば自分の欲しいものは必ず手にすることができる。豊かさの定義さえ知っていれば、自分はいつだって豊かなのだ。



そうやって自分自身と対峙し始めると、なんて自分はいろんなことに執着しているのだろうかと気づいてくる。がんじがらめだ。そういうことからひとつひとつ自分を解き放していくとどうなるかというと、自分が楽になることはもちろん、不思議なことに周りの環境とか大切な人も楽な状態になっていくのだ。今の世界にはこういうことが必要なんじゃないかと思う。なんとなくこの半年くらいでそういうことを身体で感じ始めたのだ。

物事にはいろいろな段階があると思う。その段階を踏んで、次に進んでいく。この自分の感覚を使って、小さくてもいいから何か世界のためにできることは何なんだろうかと最近探し始めている。
どこか祈りのような、そんなもの。



それで、ヨガって一体なんなのって、気になりだして、今までストⅡのダルシム的身体の柔らかさが必要なものっていう勝手なイメージと、なんだか流儀がいろいろとありそうでややこしそうなイメージしかなかったのだけど、ヨガ哲学自体に興味がむくむく沸いて、インターネットでいろいろと情報を探してみた。そうするとなるほど、今まで自分が考えてきたことがスラスラと書き出されてあるのだ。
これは面白そうだといろいろ探しているうちに、ある1冊の本に辿り着いた。その本は、ある一人のヨギ(ヨガをする人)が自らの生涯を綴ったぶ厚い自伝。それが家に届いた日から、もう、1ページ目から面白くて、読みすすめればすすめるほど止められなくなってしまう。それでもまだ全部読みきれていない。


ちょうど1年前に親友があれほどうかされていたインド熱に、今ここになって、感染してしまったのだろうか?
それとも前世のスパイス屋のおっさんの血が騒いでるのだろうか?(←昔占い師みたいな人にそう言われたことがあるのだ。)
まあ何かしらつながっているのだろう。

物質ではどうしても満たすことができないもの、物でしか価値を計れない感性ではどうしても感じることができないもの、暴力的なものの対極にあること。人を安心させられるもの。そういうことがなんだかいちいち気になってきたのだ。



とかいいつつ、物質主義から抜け出すべく、大好きな洋服たちを処分しているのだけど、これが一向に進まない。こと洋服のことになるとなんでこんなにも意思が弱いのだろうかと自問自答を繰り返している。うー...






2014年10月15日水曜日

Paris 私的回想録 - 13 区 -

メトロの駅を地上に上がるとそこはイタリア大通りとトリビヤック通りの大きな四つ角の交差点だ。そこからトリビヤック通りを南にずんずん歩く。この通りは三車線の少しゆったりとした並木道の通りで、駅から歩いて薬屋や大きな八百屋を過ぎたあたりから、何やら中華料理屋やベトナム料理屋のがネオンの看板が多く目に入ってくる。初めて足を踏み入れたカルチエなので、京子さんが歩く方向にわたしはただただ付いていく。京子さんの年齢はわからない。見た目は同い年くらいに見えるがおそらく7,8歳離れていたと思う。多分知り合い始めの頃に年齢を聞いたかもしれないが、忘れてしまった。彼女はParisで美容師をしている。
わたしの入居と入れ替わりで日本へ帰国した友人がアパルトマンの鍵と一緒に、電話番号とKyokoと書かれたメモをくれた。
「ここに電話してわたしの紹介ですって言えば、大丈夫。とにかく、フランス人に髪の毛を切ってもらうのは止めといた方がいいよ。」 その電話番号が京子さんの携帯番号だった。

 
京子さんと初めて会った日に、それまでボブのストレートヘアだったわたしは、彼女に強いパーマをかけてもらった。なぜだかわからないがParisに住み始めてから無性に強いパーマのかかったスタイルにしたくなった、というのを京子さんに言うと、彼女は笑った。日本人の若い女性はほとんどが栗色に髪を染めて パーマをかけたとしてもゆるくふんわりとした、いわば欧米人のようなヘアスタイルを希望するそうで、そうかと思えばParisに長く住む日本人女性はほとんどが黒髪のストレートロングヘア志向の人が多いらしく、京子さんはそのどちらでもない趣味のわたしを面白がり、「久しぶりにこんな強いパーマをかけられる~!」なんて楽しんでくれた。その日から京子さんとは時々ご飯を食べに行ったりお茶をしたりする仲になった。

ところでParisに長く住むと日本人はなぜかみんな「Parisで一番美味しいPhoの店」のアドレスをおのおの持つようになるようなのだ。色んな人が、あそこがParisで一番美味しいPhoを出すお店だよ、と言うのを聞いた。
わたしはというと、結局帰国の日まで、「自分の一番美味しいPhoの店」を持つことはできなかった。どこのを食べても美味しいし、だけどまあまあ似たような味に感じていた。わたしが思うにおそらく「Parisで一番美味しいPhoの店」のアドレスを持つということは、Parisに住む年月に深くかかわっている。それは醤油味に似た味わいを欲し、自分の欲求を納得させるほどのアドレスを見つけることへの切実な探求あってこそなのだ。1年やそこらでわたしはそんな切実にアジア味を恋しくなることはなかった。食べれたら食べるでいい、食べられないなら別にそれはそれで構わなかった。


というわけで、その日わたしは京子さんに誘われて彼女の「Parisで一番美味しいPhoの店」に行くことになった。彼女のPhoの店は、Parisでも一、二を争うくらい有名なPhoのお店のすぐ隣にあった。その有名なPhoの店はいつ通りがかっても、店の前に長い行列ができている。彼女曰く、その有名な店のPhoはツーリスト向けなのだそう。とはいえ、以前彼女もその”ツーリスト向け”のPho目当てで来た時、その長い行列を見てあきらめ隣の店に入ったところ、このParisで一番美味しいPhoに出会ったのだそうだ。
目の前に出てきたのは真っ赤なPhoだった。唐辛子がふんだんに入った、Phoにしてはこってりとした濃厚なスープで、ふたりしてふうふう汗をかきながら食べた。スタンダードなPhoではないが、なるほどクセになるような、何ヶ月かに1回くらい無償に食べたくなるような、そんな味だった。


フランスには、旧植民地であったベトナムから移住してきたベトナム人が多く暮らしている。特にこのカルチエは、フランスだと思えないほどベトナム料理屋や中華料理屋がひしめくように並び、ベトナム人や中国人がたくさん住んでいる。看板の派手な色の組み合わせや、聞こえてくる中国語かベトナム語かだかの喧騒はまたたくまにアジアの街にトリップしたような気にさせる。そして歩いているとなんだか不思議と元気になるのだ。そんな時、やっぱり自分はアジア人なんだななんて感じる。


Parisに住んでいた間で、Parisに住むいろんな日本人と知り合いになった。Parisに来て何ヶ月かの人、3~4年くらいの人、十年以上も住んでいる人、何かを志して修行中の人、学生、駐在員、その家族、自分の店を経営している人、フランス人と結婚をしている人、ビジネスマン、アーティスト、同時に色んなところで色んなことをしている人、日本人同士でいるのが大好きな人、日本人が嫌いな人、Parisじゃないと生きていけないという人もいれば、日本に帰りたいけどなぜかここに居るっていう人もいた。そして全員が程度はあるにせよ、フランス語を話す。それぞれがそれぞれ独特の訛りを持って。
わたしは、彼らと一緒に居るのが楽な時もあれば、フランス人の友人と居る方がしっくりくる時もあった。
そしてわたしはそれぞれの日本人たちと関わり合うなかで、その人たちがふわりと身にまとっている、Parisの街の独特のオーラを感じをうけるようになった。たまに日本から友人たちが旅行で来た時、その友人たちの日本から持ってきたオーラは、Parisに住んでいる日本人たちのそれとは違いすぎて、どちらがいいとか悪いとかそういうのではなく、ただただその違いを感じてはわたしはなぜか自分だけがどちらでもなく、ひとり漂っているような不思議な感覚になっていた。

そういう感覚が強くなる時、こんなアジアのどこかのような、それでいてアジアのどこにもないような場所に来ると、なぜだかほっとするのだ。
ここもまぎれもないParisの一角。





2014年10月8日水曜日

Paris 私的回想録 - 16 区 -

Paris 16区(2010年 6月)

「パレ・ド・トーキョーの今度の展覧会の出品作品に選ばれたんだ」
いつも冷静で物静かなモトがその日は少しだけ興奮してわたしに言った。
パレ・ド・トーキョーというのは、現代美術を取り扱う16区にある美術館のこと。モトはわたしと年齢がひとつ違いの日本人で、Parisで友達になった。彼は高校を卒業してからずっとフランスに住んでいるので、もう15年以上もフランスにいる。フランス語で会話することもまったく問題がないし、それはそれは綺麗なフランス人の奥さんまでいる。彼の職業はアーティストで、主に彫刻作品を制作している。その彼の作品がパレ・ド・トーキョーと、隣のパリ市立近代美術館の、2会場共催による大規模なグループ展に出品されるというのである。

その展覧会開催の前日、関係者だけが招待されるプレオープンの夜に、モトはわたしを含め彼の友人たちを招待した。彼は日本人が経営するレストランで働いていたので、わたしやその友人たちは日本人同士の仲間で、その展覧会にかけつけた。
2会場共催ということで、作品もかなりの数で見ごたえがあり、夜中12時の美術館の閉館時間までみっちりと作品たちを堪能した。閉館時間を過ぎると、パレ・ド・トーキョーとパリ市立近代美術館の中庭全部がDJブースとなり、パーティが始まる。人の多さと熱気のせいで、Parisにはめずらしくビールがよく合う夜だった。ギラギラに点灯したエッフェル塔がのぞく中庭で、踊ったり話したり、銘々に楽しんだ。
そして、作品もパーティも存分に楽しんだわたしたちは、その後、モトの美大時代からのアーティスト仲間であるフランス人たちを交え、7,8人でビストロへ行こうということになった。

 
ビストロに着き、7,8名ということで店のスタッフは手際よくいくつかのテーブルをひとつに並べ、全員がひとつになって座れるようにセッティングをしてくれた。モト以外のわたしたち日本人は左側に固まって座り、フランス人たちはモトを囲み右側に座った。わたしはその左側の端、ちょうど全員が見渡せる誕生日席のような場所に座った。
そのフランス人の中には、その内の誰だかの彼女とかで唯一女性がひとりいた。いかにもパリジェンヌといった白地に細かい柄の入ったワンピースと金髪を無造作にシニヨンにした髪、赤い口紅のフランス人女性だ。おそらくその彼氏が呼び寄せたのだろう、彼女はわたしたちが席について20分ほどしてから店に着き、自分の彼氏やモト、顔見知りの友人たちに挨拶をし、席についた。

わたしたち日本人とフランス人はモトを囲んで全員で話が盛り上がる、なんてはずもなく、左と右に分かれた。いや、実をいうと完全に分かれていたわけではなく、左側の日本人グループは右側のフランス人たちの会話に入っていこうとするのだが、いかんせん日本人全員が、程度はあるにせよつたないフランス語しか話せなかったので、結局会話は途切れ、フランス人同士だけで話が盛り上がる。フランス人たちがモトを囲んで盛り上がっている話題は、その展覧会について、その作品たちについて。
そしてその彼女は、その会話に入っていけない日本人たちを完璧に無視の態度だった。日本人のひとりが会話に入ろうと話かけても無視、目も合せない、というか顔すらこちらに向けない。日本人が話し、もし他のフランス人たちが少しそちらに耳をかたむけたとすると、ひとり不機嫌そうに下を向いて爪をいじる。とにかく無視。
わたしはその女性の態度と、そしてその態度をガンガンに感じているにもかかわらずそれでもへらへら笑いながらがんばって会話についていこうとしている日本人(わたしの友人たち)の態度に、居心地の悪さを覚えた。イライラした。べつに無理して会話なんかに入らなくてもいいじゃないか。

そして少し経ち、話に時々入ろうとする日本人たちを無視し続けることに限界がきたのか、もしくは同じ空気を吸うことに限界がきたのか、彼女は突然椅子から立ち上がり、彼氏に不機嫌に「帰る」とだけ言い、さっさとひとりで店を出て行ってしまった。彼氏も取り残された後、首をかしげていた。


何の理由で彼女はわたしたち日本人を完全に無視していたのだろうか?
わたしたちが日本人でなければ、彼女は楽しく会話をしたのだろうか?
もしくはわたしたちがフランス語でのコミュニケーションに全く問題がなければ、彼女は楽しく会話をしたのだろうか?
彼女が去った後もわたしはそればかりを考えていた。


フランスの中でフランス語が自由に操られないということは、相手に意見をする術を持たないということだ。(お互いが英語等他言語を話せるならそれはまた別。ただし、英語を流暢に話すフランス人は全員というわけではない。)
自分の意見を伝えないということは、フランスでは自分の意見を持たないのと同じこと。自分の意見を持たない者は、フランスでは対等には扱ってもらえない。
自分の立ち振る舞いや態度、フランス語を話すことの姿勢については、こりゃ軸をしっかり持たないとこの国では舐められるな、なんて、この夜の悔しさはわたしをしゃきっとさせた。

それと、フランス人はよく喋る。何をそんなに一所懸命話すのかと思うほど、本当によく話す。内容はどんなものであれ、もちろんその年代や、知識の深さなどにもよるが、だいたいが「自分はこう思う。」「あれのこういうところが自分は好きだ。」などというように自分の意見を話す。
直接的に相手に伝えること自体の善し悪しは別として、自分の意見を持つということについては、大人として基本的なことだと改めて思い直した。


もちろんあの彼女の”完全無視の態度”が「フランス語を話せないこと」ではないかもしれないということも大きく考えられた。なんとなくだが、彼女はわたしたち日本人が意味もなくへらへらしている態度そのものに”ダサさ”を感じ、イラっときたのではないかとわたしは思っている。まあ、わたしから見ても自分も含めて、格好よくはなかったと思う。
フランスに住むようになり、親日家のフランス人というのはけっしてマイノリティなわけではないことがわかった。親日家ではない人は、アジア人の区別なんてつかないのは当たり前。フランスに住むようになり、自分が有色人種であることを認識するようになったし、差別の対象になり得ることも知った。

外国に住むということについて、人それぞれにいろんな考え方があると思うが、わたしは、一種、腹の底に力を据えて、その上で柔軟な姿勢を保つというような感覚が必要だと感じた。まあ外国に住まなくたって、いつだってどこだって同じなんだけど。


Parisに住むと、くっそー!と悔しい思いをすることがたくさんあるが、どちらにしても態度で、言葉で意思表示をしないと、ただ無視されて終わるだけ。言葉を習得して出直すしかない。
ただ、もしかしてこの悔しさエッセンスも、Parisの魅力の一部なのでは...なんて思うのだ。






2014年9月30日火曜日

Paris 私的回想録 - 18 区 -

気がついたらただただ階段を登っていた。最後の一段をのぼり、目の前に立つサクレクール寺院を見上げた。長く階段を登ったせいで温まった息は一層白く、寺院の壁の灰白色と混じり、空気の中に煙のように消える。

あの日なぜあんなにも寂しい気持ちだったのか、なぜあんなにも気持ちがキュウとなっていたのか、今となっては思い出せない。突然発作のようになぜかサクレクール寺院をひとりで見たくなった。冬の日の曇天の空の下で、寺院の壁はいったい何色に見えるのだろうかとそれが気になり、Abbesses(アベス)駅でメトロを降り、長い坂の階段を登った。こんな平日の寒い日に来る観光客は少ないのだろう。いつもなら寺院の白亜の壁を背景にして観光客の色とりどりの洋服の色がちらちらと視界に入るのだが、今日は背景の色だけをゆっくり眺めることができる。以前訪れたのは初夏だった。その時は青い空の下にくっきりと寺院が白く浮かびあがっていたが、目の前の寺院は輪郭の線や色があいまいで、ごしごしと指でこすると、そのままごにょごにょと周りの空気の中に混じりって消えてしまいそうだ。


しばらくぼーっとその壁の色を見ていた。それから後ろの階段を少し降り、広場に立った。晴れた日ならここから遠くまでParisの街を見渡せるが、今日のParisは街全体に牛乳がこぼれたみたいだ。隅から隅までたっぷりと薄い灰色に滲んでいる。
牛乳で滲んだParisの街。悪くない。晴れた日の眩しいParisはくっきりと美しすぎる。
街にこぼれた牛乳をすするようにして、息を吸い込んでみた。そうするとわたし体の中の空間がすこし膨らんで、その景色の一部がわたしの体にじわりと混じり込んだ。

 
気がつくと夕方の5時を過ぎていた。辺りはすでに薄暗い。冬の夜の匂いが薄く階段に積もってきたのを感じる。わたしはさっき吸い込んだ景色の不思議な重さ、といっても心地のよい重みを体に感じながら、街灯に照らされた階段を降りはじめた。


あの日を境にして、わたしの体には今になってもParisが混ざり込んでいるのだ。







2014年9月23日火曜日

Paris 私的回想録 - 1 区 -

Parisに住み始めて1ヶ月過ぎた頃、わたしは、さてどうやってフランス語を話せるようになろうかと考え始めた。まったくと言っていいほどフランス語を話せない状態でParisに住み始めたからだ。
語学学校に通うという選択肢はわたしの中ではなかった。Parisの語学学校と言えば授業料が高いことで有名で、そんな授業料を払えるわけなかったし、それにせっかくParisで生活しているのに多くの時間を学校に費やすのが嫌だったのだ。なんとかお金をかけずに、自分の好きな時間を過ごしながらフランス語を話せるようにならないだろうか。

とは言え、フランス語が話せないわたしはもちろんフランス語の文章も十分に理解することができない。だから日本語の情報に頼るしかなかった。Parisには日本語で暮らしていけるのではないかと思うほど、探せば日本語の情報はいくらでも手に入る。
ネットももちろん、有名な日本のフリーペーパーもいくつかあるし、みんな掲示板に個人的な広告を出して、やり取りがけっこう頻繁に行われている。持ち帰ったフリーペーパーをペラペラめくっていると、掲示板ページの中で「日本語とフランス語をエシャンジュしましょう。(Fabien) 」という短い文面のアノンスを見つけた。エシャンジュというのは、交換という意味のフランス語で、ここでは”お互いの言語を交換して勉強し合いましょう”という意味の記事になる。
何の予備知識もないわたしは、お!これなら簡単にフランス語を勉強できるかも♪ なんて、即効そのFabienへメールで連絡したのである。



今思えば無謀である。外国で、掲示板の書き込みだけで水知らずの人と会うのである。その当時のわたしはフランス人の名前もそう詳しくなかったので、その”Fabien”という名前が男性名なのか女性名なのかもわからず、しかも調べもせず無頓着にコンタクトをとってみたのである。
1週間後、Fabienから”来週の月曜日の16時、メトロChâtelet(シャトレ)駅の、シャトレ広場の出口で待ち合わせしましょう。”と返事が来た。

ということで来週の月曜日に会うことになった。
ということを長くParisに住んでいる日本人の知り合いに話したところ、「え?大丈夫?その名前だったら男だよね?ってかそんなフリーペーパーにアノンス出す人なんて男しかいないよね。気をつけた方がいいよー!日本人の女性目当ての漫画とゲーム好きのオタクのフランス人男性がうようよいるんだから!」と言われたのだ。自分の無知に気づき、その瞬間から来週の月曜日が恐くなった。他の知り合いにも聞いてみると、やっぱりあんまりおすすめしないとのこと。どうしよう。

というわけで、行かないことに決めたのである。
とはいうものの「まだ経験する前から怖気づいてどうする?もしいい人だったら?」なんて気持ちもあったりしてちょっとだけ気になってはいた。

そして当日、ヨーロッパに長く住んでいた経験のある友人Iが偶然Parisに旅行で来ていたので会ってお茶をすることになり、「もう行かないけどね、ちょっと気になってはいるんだよね。」とカフェでその話をした。そうすると意外にもその友人Iは「会ってみたらいいよ。きっと怖い思いなんてしないから。今からでも行ったらいいよ。」となぜか迷わずにきっぱりわたしに言った。「別に行かないならそれでもいいけど。でもいい出会いになるかも。きっと怖くないよ。」
時計を見ると16時10分。すでに約束の16時は過ぎている。顔をあげてIを見ると、彼女はわたしの目を見てにやっと笑った。
「やっぱりとりあえず行くことにする!ごめんね!ありがとう!!」

”待ち合わせに少し遅れます。”
ショートメールを送り、カフェを出てすぐにメトロに飛び乗った。


Châteletの駅を知っている人は想像がつくだろうけど、この駅はParisのほぼ中心に位置し、メトロ1、4、7、11、14号線が通り、 RER(近郊高速鉄道線)も止まるので、ターミナル的存在のかなり大きな駅なのである。待ち合わせのシャトレ広場の出口もすぐに見つかるだろうと安易に考えていたのが馬鹿だった。駅構内はだだ広く、即効迷う。長い動く歩道を行ったり来たり、迷ったあげく適当な出口で地上に出ても結局まだ地図を見ることにも慣れていないので、また構内に戻ったり。
時計を見るとすでに16:40。
もうだめだろうと半分あきらめながらも走る。やっとシャトレ広場の出口を見つけて、地上に出た時には16:50。
走った上に、やっぱり変な人だったらどうしようという不安とで、動悸が尋常もなく早い。しかも待ち合わせに便利な場所なのか、人がうようよいて、色んな人が怪しく思えてくる。やっぱり引き返そうか。

 
うわ、なんか目が会ってる人いる、近づいてくる、近づいてくる。なんだか冷たそうな感じの金髪の男性だ。
「あなたですか?僕がFabien ファビアンです。」

彼は背が高く端正な顔立ちの、一見イギリス人俳優にいそうな金髪の男性だった。
なんと彼は1時間もずっと待ってくれていたのだ。(フランス人だからもしかしたら待ったのは45分くらいかもしれないけどww)わたしは覚えたてのフランス語で1時間も遅れたことを詫びた。
「C'est pas grave. 問題ないですよ。お会いできてよかったです。」

わたしのあの最初の心配とはうらはらに、Fabienはとっても紳士的で日本が大好きな、だけど漫画にもゲームにも全く興味のない、穏やかで真面目なとてもいいやつだったのだ。
わたしたちはすぐに打ち解け、フランス語と日本語を教え合うために1週間に1、2回お互いの暇を見つけて会うようになり、時々は美術館に行ったり映画を見たり、お互いの友人を交えてホームパーティに招待したりと、とても仲良くなった。
彼はわたしが初めてParisで友達になったフランス人で、今でも時々連絡を取り合っている大切な友人のひとりとなっている。


とはいえ、今考えると待ち合わせの相手がFabienで運がよかったなと思う。日本人相手の掲示板に書き込んでいるフランス人の男性は、日本の女の子目当てのオタクが90%であることは確かだったことがあとあと分かったので、それからは女の人としかコンタクトをとらないようにした。
それでもやっぱり、アノンスを見て連絡し、あの時行ってよかったと思う。あのおかげでわたしはフランス語を話せるようになった、とちょっと大げさかもしれないが言い切ろうと思う。Fabienと出会えたこともそうだが、あの日Iに会うことになったことも全部つながっている。

それにしても、 Parisに住み慣れてからは、Châteletの駅を待ち合わせに使うようなことも無謀なことだと知った。東京でいうと新宿駅、大阪でいうと大阪駅で初対面の人と待ち合わせするようなものだ。広すぎて人が多すぎて、わたしはよっぽどの用がない限り、Châtelet駅では降りないww 



Parisは不思議な磁場があると何度もここに書いてきたが、Parisの街の中には見えない糸が張り巡らされているのだ。その糸は時空を超えて張り巡らされている。もしかしたら Parisに魅せられる人というのはその糸に何か関係があるのかもしれない。
でもその糸は誰が絡ませているのだろうか。誰が気まぐれに解きほぐしているのだろうか。





2014年9月17日水曜日

Paris 私的回想録 - 19区 -

Paris 19区(2009年 12月- 2010年 7月末)

これから住むアパルトマンがあるメトロの駅のホームにわたしが初めて降り立ったのは、12月の初めの朝の5時過ぎだった。Parisの冬の5時はまだ真っ暗だ。5日前に日本からパリに着いたばかり。まだ地下鉄にもなれていない。しかもあれほど日本を発つ前に、Parisの街をよく知るいろんな人から「人気のない地下鉄にはひとりで乗るな」と忠告を受けていたはずなのに、すでにパリ到着5日目でその忠告を無視している。
すくみそうになる足をどうにか動かし、メトロを降りるとホームを走りとにかく必死に地上への出口を探しかけ上がる。地上に出ると、目に入ったのがメトロの駅の名前が付いたカフェ。そのまま信号を斜めに渡ってパン屋。その横の角にはメガネのチェーン店。もちろんまだ全ての店は閉まっている。真っ暗な中で看板の文字だけが目印だ。左に曲がって、少しそこからゆるやかな坂になる。
Parisの地図の青い本を右手に、住所を走り書きしたメモを左手にぎゅっと握りしめて暗い通りを急ぎ足で、とにかく前だけを見て歩く。高架下の物影が動く度に足を速める。こんな無茶なことするんじゃなかったと後悔で胸と頭が一杯になった時、メモに書いている住所の通りと同じ名前の通りを見つけた。
薄暗く地面も整備されていない小道に入る。


その日はParisに住む日本人の女友達が日本に帰国する日。彼女の借りていたアパルトマンに入れ替わりわたしがその日から住むことになっている。一週間前、わたしがまだ日本を発つ前に彼女と電話をした時には、鍵渡す時にゆっくりお茶でもしようね、なんて言われていたが、出発前の日になって「荷造りが全然終わってないの!5時半にはもう出発するから、悪いけど出発する前に直接アパルトマンまで取りに来て!」と電話がかかってきたのだ。Parisに1年住むと、気性の荒さがすっかりパリジェンヌ化してしまうようだ。

その薄暗い小道、並ぶ建物はどれも同じ建物に見え、番地を注意深く見ながら歩く。あった、十一番地!
蹴れば簡単に開くのではないかと思うような立て付けが悪いそのアパルトマンの朽ちた緑色のドアの前に立ち、部屋番号の呼び鈴を鳴らした。


とにかく快適でないないらすぐ引越しなよ!ハイ、これ!
とぶっきらぼうに彼女から手渡された鍵は、日本では見たことがない初めて手にする、古いヨーロッパ映画でみた鍵のかたちをしていた。

その日からわたしのParisでの暮らしが始まった。
実際蹴るまでいかずとも、足に力を入れて押さえながら鍵を閉めるコツがいる立て付けの悪いアパルトマンのドアや、隙間だらけの斜めの床、日曜日になると隣に住むアフリカ系の家族のアパルトマンから聞こえてくる民族音楽の太鼓の音、すばやく済ませないとお湯から水に変わってしまうシャワー、一睡もできない夜を経験させたねずみの爪音(!)
そのアパルトマンの暮らしは、わたしに順応さ、そして日本の暮らしがいかに快適であるかを体得させた。でも元来柔軟さは持ち合わせているので、1ヶ月もしないうちにわたしはその暮らしを気に入り始めた。(ねずみ以外!)

そこの暮らしを気に入った大きな理由はその地区がとても住みやすかったというのが大きい。アパルトマンから徒歩2分、MOF(フランス国家最優秀職人)取得の美味しいパン屋があり、八百屋も肉屋もチーズ屋も、モノプリもホームセンターもナチュラリア(オーガニック商品専門のスーパー)も本屋も花市場も、生活に必要なものはなんでも揃う。メトロの駅の名前がつくカフェはアパルトマンから5分のところにあり、そこのサラダ・ペリゴールは大のお気に入りで、今でもわたしにとってのParisの味はあれなのだ。そのカフェのすぐそばにはサンマルタン運河が流れ、天気のいい日はその界隈に住む住人が日向ぼっこをしに行く。そんな界隈だ。



近所の八百屋やパン屋の店員と顔馴染みになり、アクセントや”R”が入るその少しむずかしいメトロの駅名をやっと正しく発音できるようになった頃に、かの有名なサンジェルマン・デュプレから目と鼻の先の左岸の界隈へ引っ越すことになり、わたしは19区の暮らしを離れた。

BoBoなのかスノッブなのかしらないが、今でも時々、「いやー、わたしはもっぱら左岸派です。右岸?一桁代ならまだしも二桁の区なんて、そんな移民だらけの庶民くさい界隈なんて、足を踏み入れたこともないよ。」なーんていう人種に出くわすことが極たま~にある。Parisは20区に分かれいて、セーヌ河を境に右岸、左岸と呼ばれている。右岸は特に二桁代、つまり10区~20区は移民が多く住む庶民的な界隈なのだ。
そんなことをいうスノビッシュな人と出会った時、わたしは心の中で大いに”庶民的なフランスの楽しさ”を知っていることの優越感に浸り、そしてそんなことを言う人を面白みのない人だと判断する。
シックな左岸の暮らしももちろん本当に楽しかったが、あの19区の庶民的な暮らしは独特で、フランスという国がまさに人種のるつぼであることを感じさせられ、そしてそれを生活レベルで楽しむことのできる経験は他ではなかったのだから。


Parisには不思議な磁場がある。今でもあの磁場をわたしの体のどこかの器官が察知している、そんな気がする。

こうやって断片的に回想しながら、少しずつParisの街の魅力を解剖してみようか、なんて、意味があるのか無いのか、結果は目に見えているようなもんなのだけど、もしかしたら、もしかしたら、その秘密の端に指先が届くかもしれない。
なぜ今のタイミングなのかはよくわからないけど、わたしの記憶を辿りながらちょっとそれを試みてみようかと思う。Parisを記す。
まあ、飽きたらやめよう。

 
 
 

2014年9月4日木曜日

ノロケ以外のなんでもないけれど

わたしは恋人がトマトを切っている姿がとっても気に入っている。
彼とふたりで家で食事をする時にはだいたい役割分担をしながらふたりで料理の準備をする。


作る料理によってももちろん違うが、だいたいにおいて「洗って」「切る」作業は彼が担当し、わたしはそれを炒めたり、蒸したり、煮込んだりする。わたしが彼の洗った食材を炒めたり蒸したりしている間に彼がサラダを作るという流れ。
サラダを作るといってもそんなに手の凝ったものではなく、シンプルに基本はサラダ菜とトマト、オリーブオイルとヴィネガー、塩、胡椒。そこに例えば炒めたキノコとか、その時によっては旬のアスパラだとか、ポーチド・エッグとかなんだのかんだのをその時の気分で加える。
そしてわたしはというと、野菜とか肉とかを炒めるのに集中している風を装って、ちらっと横目で盗み見るのだ。彼がトマトを切るところ。

洗ったトマトを大きな手の中でくりくりっと回して、ペティナイフでへたと芯をくり抜く。それから少しだけ慎重に半分のところでナイフを引き、そのあとはざくっざくっとくし切りにする。
この一連の作業、この手の動きを見るのがなぜだかわからないけれど大好きなのだ。

セクシーだと褒めると、ふつうのことじゃない?と言って肩をすくめる。



そういえば最近また、自分の中の知らない部分に気づいた。へ~、こんな感情が実はあったんだー、というように、自分の中で巧みに覆い隠されていた負の感情の存在に気づいた。
長い間自分の中にあった”克服できない部分”を、ここ最近は、あ~わたしにはやっぱ無理なのかな~なんてあきらめ始めようかとしていた矢先、それを克服できない原因が、この負の感情にあるということに気づいた。

ちなみにその感情とはあることへの”罪悪感”。
自分でもこの存在にはびっくりした。
無意識のうちにこの”罪悪感”で自分自身を抑えつけていた。その罪悪感の存在に気づくと、わたしのいつまでたっても”克服できない部分”はそれが原因だということにするっとつながった。
そして今回それを気づくきっかけになったのが、彼がしてくれた、本当に愛情たっぷりなあることだった。(これね、ノロケ以外なんでもないっつーことは)わたしが喜ぶだろうと時間をかけてしてくれたことだった。

他の誰かを変えることはそうそうできないし、っていうかそんなことするもんじゃないと思う。だけど、自分自身が変わることはいつだってどんな時だってできる。で、変わった自分にふと気がつくと、必ずそこのきっかけには愛のある何かが関わっている。で、その愛のある何かのおかげで、自分には価値があるということを知ることになる。

その彼がしてくれたことに対してありがとうと言うと、彼は、う~ん、でもふつうのことじゃない?と言う。そういう時、彼のことをセクシーだなと感じる。

 
今まで克服できないと思っていたあの部分を、もしかしたら克服できるかもしれないと、今はなぜかわからないけど、根拠のない自信が少しだけ出てきている。ひとつ年をとった途端の出来事だったので、やっぱり年をとるというのは意味があるもんなんだな、なんて思う。

どうでもいいけど、人がトマトを切る姿をセクシーだなんて今まで思ったこともなかった。これも年のせい?


...はい、つまり、とどのつまり、結局はノロケでしたー





2014年8月26日火曜日

なんなんだろう、あの魅力は

ここに何度もしつこく書いているが、わたしは過去何度もその当時のボーイフレンドに”バイ”じゃないのかという本気の疑いをかけられたことがあるくらい(恋人も本気で思ったことがあったらしい。どうでもいいがフランス語で”バイ”は”ビー”という。なんかフヌけた感じがする)それくらい女好きだ。恋愛対象は男の人だけど、それ以外のところではわたしは女の人贔屓がハンパない。
恋人以外、男の人よりも女の人に興味しんしんなのだ。
(ちなみにレズビアンの友達からは、わたしは男みたいな感じなので興味ないと言われてしまった...)


今までに本当にいろんな素敵な女性に出会ってきたけど、なかでも”ひと目みてハッ!”とさせられる人というのはそうそう頻繁にいるわけではない。だけどそういう女性のだいたいが50代以上に多い。
昔アパレルの仕事をしていた時に、パリコレ会場で伊藤美恵さんに会って彼女をひと目みた瞬間に、なんなんだこの惹き込まれるオーラは!と思った。美人かどうかではなくてなんというか、エレガンス。放つ何かがエレガントで、本当にかっこよかったのだ。その当時わたしは、彼女が何をしている人かというのはまったく知らず、当時働いていた会社の社長が彼女と話すところに立ち会っただけで、「誰この人!何このオーラ!」と思ったのを今でも覚えている。(←口に出して行ったら社長に怒られた)
それはヴィヴィアン・ウェストウッドのショー会場だったのだけど、そのショーで最後に出てきたヴィヴィアン自体も”ひと目みてハッ!”とさせられる人だった。チャーミングでチャーミングでしかたなかった。動く度にプリプリ揺れるあのお尻も!


あの魅力はいったいなんなんだろう。

そう思えばパリでは、すれ違う女性で、魅力的だなと思う人は断然50代以上の女性が多かった。年を重ねれば重ねるほどに何が増しているのか、同じフランス女性の若くて可愛らしいマドモワゼルが隣に立ったとしても、たいていはマダムの引き立て役にしかならない。それを知ってのことなのか、フランス女性は若い世代はたいてい黒やグレーの色のコーディネートが多いが、年齢を重ねた女性の方が綺麗な色や派手な差し色のコーディネートをしているように思う。
しかも、フランス人男性もまだ20代の男の子でさえ、50代以上のマダムの魅力を十分に認めていることがわかるのだ。きちんと女性として扱う。
(もちろん若いモデルみたいな人にしか興味がない男性は世界中にいる。) 

普段、日本とフランスを比較して優劣をつけたりするのは意味がないと思うのであまり好きではないが、これについてはどうしても日本を比べてしまい、日本の現代のロリータ嗜好に辟易してしまう。AKBとかはもうごめんなさい、わたしには気持ち悪すぎて...
”アンチ”エイジング思考の女性も、若さにしか興味がない男性も、わたし個人的にはあまり魅力的だとは思えない。

 Parisでアパレル展示会に居たアバンギャルドでお洒落なマダム

ただ、ここ何年かは大きな”ハッ!”とというのはなかったのだけど、この間久しぶりに本屋でぷらぷらしている時、思わず一冊の本の表紙の写真が目に留まり、”ハッ!”として手にとった。


彼女がトップデザイナーだということは知ってはいたけれど、彼女の服もわたしの趣味ではなかったので、たいして今まで「島田順子」に興味があったことはなかった。だけど、この70代の女性の写真には”ハッ!”とさせられた。自分の自然体とエレガンスのバランスを保ったスタイルで、且つ個性的でチャーミングな魅力を放つ70代の女性を初めてみた。


もちろん人それぞれ趣味があるので、魅力的だと感じる女性も違うとは思うけど、わたし個人的には年齢に抗うのではなく、年齢を楽しむ美しさがある人に魅力を感じる。せっかく今まで生きてきて構築され熟成された魅力を隠すのはもったいないと思うのだ。そして、”自分の個性とは何か”を知っている女性はかっこいいなと思う。

ブルターニュに住むとってもチャーミングな友達

でも最近気づいたのは、魅力的な人というのは結局どの時代のどこを切り取っても、何かその人独特の魅力的なカケラがあるのだろうということ。 年をとるにつれてその魅力のカケラが大きくなっているだけなのだ。
周りの女友達たちを見ると本当に美しくて頼もしい。綺麗な人たちだなと思う。周りの男友達はそのほとんどが年上のおっさんたちだけど、彼らは悪ガキみたいな風なのに優しくて穏やかだ。彼女たちや彼らのその魅力のカケラに気づいては、いつもその眩しさに目を細める。

Parisの好きなブティックのマダム


もうすぐまたひとつ年をとる。やっぱりそれはワクワクする。30代もまだ前半チームのくせして、もう70代の女性が憧れの対象範疇に入ってきている。そんな焦るなよーとも思うし、70代の女性の魅力に気づけるようになってよかったなとも思う。

そういえばこの年になってようやく自然の中にいることの心地よさに気づいた。心地よさというか面白さという方が近いかもしれないけど。我ながらびっくりするけれど、こんな感覚初めてだったのだ。ドラキュラみたいな生活をしてた時からは想像できないこの穏やかさ!単に年をとったんだなと思うけど(笑)
でも、そうするとどういうつながりなのか、身近にいる人たちを今まで以上に心から尊敬できるようになった。 大切な人たちを愛おしく思う。そんな魅力的でいてくれてありがとうと思う。

何歳になっても、人の魅力に気づけるような自分でいたいなと思う。






2014年8月19日火曜日

チーズってみんなどれぐらい食べてる?

先月、友達に誘われて「チーズの会」という講座に参加した。
日本人が家庭で1ヶ月に平均どれくらいチーズを食べてると思うかという質問に講師の人に当てられ、「え~、う~ん2kgぐらい?」と答えた。


答えは200g。大ハズレ。「え!1ヶ月で200g?!それは少ないすぎじゃないのか!!」とリアクションをするのはわたしと、わたしを誘った友達Tのみ。ちなみにその日本の200gというのも、スライスチーズとかとろけるチーズとか、6Pチーズとかそういう種類のものだそう。
本当にそんなに日本家庭ではチーズを食べないのだろうか...?友達のTなんて、ほぼ毎日料理に使うなんて言っている。

わたしはというと、毎日コンスタントに食べるわけではないけれど、だけどわたしの家の冷蔵庫から200gのチーズがひとたび外に出たなら、へたするとその日限りでチーズは冷蔵庫に舞い戻ることがない。もちろんわたしもチーズは大好物だけど、わたしの恋人ならひとりで200gはきっとぺろりと食べてしまう。チーズ売り場でチーズを選んでいる時の彼の真剣な眼差しと、それを食べる時の嬉々とした顔をみると、”あ!この人フランス人だったんだ。そうでした、そうでした!”と思い出す。
ちなみに世界で一番1ヶ月にチーズを食べているのが、フランスで、1ヶ月の平均2.6Kgだそう。


今は日本でも街なかにもチーズ専門店があったり百貨店でチーズ売り場があるので、美味しいチーズを買うことができるけど、やっぱり日本はチーズが高い!意味がないと思いつつも、どうしてもどうしてもフランスで買う時の値段とケチ臭く比較してしまい、わたしと恋人は肩を落とす。
パリに住んでいた頃、よくスーパーで買っていたチーズにLe pié d'angloys (ル・ピエ・ダングロワ)というものがあるんだけど、フランスだと2.5ユーロ(約350円)くらいだったと思う。それが日本で買おうものなら、1500円くらいする。フランスだとスーパーで買うチーズの類なので、それに1500円!!手にとって値段見て、ひ~!となって、それから肩を落として、そしてそっと売り場に戻す。


で、美味しいチーズは日本で高すぎてそんなに頻繁にはたくさん買えないので、わたしは時々スーパーで日本のメーカーのチーズを買うこともある。その中でもまだ悪くないなと思えるカマンベールがあり、この間恋人にそれを紹介してみた。反応はというと、
「う~ん、まあ、悪くないね。でもこれはLe camembert(ル・カモンベール)とは悪いけど呼べないね。そうだな~、これは”ラ・かまんべーら”だね。」
”我ながらうまいことを言う”みたいな顔をしている。 なんだかくやしい。

どうでもいいけど、わたしは日本のQPチーズとか6Pチーズとかの類のチーズが好きではない。だけど、スナック菓子とかアイスクリームの「チーズ味」は好きで、中でもブルーベリーチーズ味のアイスとか結構好きで、時々買って食べる。で、彼はそういう「チーズ味」のものをわたしが食べているのを見て、気持ち悪そうに「そのチーズ味っていったい何チーズの味なの?」と聞いてくる。
そういえば、よく見るチーズ味というのは何味なんだろう。とりあえず、よくわからないけど、”日本人がイメージするチーズ”味というざっくりしたものなんだろう。だいたいカマンベールやブルーチーズ味でないことはたしかだ。

それから、わたしと彼の間では、ややこしいので(←自分たちが)、フランスのチーズを”フロマージュ”、日本のチーズを”ち~ず”と呼ぶことにして、別物として認識している。


やっぱりその土地でできたものを食べることが、安上がりでしかも状態もよいものを口にできるってことはよーく存じ上げてはいるんだけど...。やっぱチーズはねー。美味しいもんな~。
あ、あとチョコレートも。これははずせない。

なので、いつもはケチケチしてる分、何かのパーティとか、クリスマスとか特別な時には秘密のルートに頼んでどーんと仕入れて、思う存分堪能する。



ちなみに、前述のLe pié d'angloys (ル・ピエ・ダングロワ)、この名前の意味はというと『イギリス人の足』...!
この意味を知った時、こんな独特のクセのある匂いの食べ物にそんな命名するなんて、フランス人てなんて意地の悪い人たちなんだろうかと思った(笑)
いや、まろやかで比較的クセもないウォッシュタイプの美味しいフロマージュなんだけど。
味は...そうそう、イギリス人の足って感じww

なんてこんなことつらつら書いてるけど、豆腐と納豆が大好物で、あんこ大好き。結局は雑食というだけなのだ。美味しかったらなんでもよい♡
誰が何を何グラム食べていようがどうでもよい(笑)
美味しいチーズがイギリス人の足味でも...よいのだ!
(あ!今度彼にチーズ味のアイスが何味が聞かれたら、「イギリス人の足の味」って答えよう!なんだかよくわからないけど、悔し紛れにそうしてみよう!)


★★★美味しいつながりでちょっと告知します★★★
主催をしているフランス語教室サロン・デュ・フランセ主催の
フランス文化講座を今週の土曜日開催いたします♪
”おいしい”をきっかけに広がるフランス文化講座です。(講座は日本語で行います)
ご興味がある方はぜひお越しください。

8月23日14時ー15:30
『シリルの”おいしい”から始まるフランス文化講座』
詳細はこちらへ



2014年8月6日水曜日

女友達という生き物

気のおけない女友達というものはなんでこんなに居心地がよいのだろうかと思う。他愛もないことから仕事のこと、恋愛のこと、ちょっとした打ち明け話、話題はつきず、永遠話をしている。大好きな店でとびきり美味しい料理を食べながらだと、一層テンションはあがる。ビール片手に焼き鳥でもいいし、知り合いの美味しいイタリア料理屋さんでもいい。少し落ちこんでいる時はゆっくりカフェで話をしたりと、とりあえず、なんでもいいのだけど。


ふと考えてみると、周りにいる女友達はそれぞれに、何かしらどっか変でおもしろい女性たちだ。もちろん外見もきちんと綺麗にしていてベッピンさんたちなんだけど、外見よりもその個性的な中身がそれぞれ滲みでているので、とっても魅力的。

昔からなにかと年上の女の人と遊んだりすることが多くて、20代の頃は、自分よりも年下の女の子に対しては何をどう話していいのかよくわからなくて苦手だったけれど、やっと30代に入ってポツポツとようやく年下の女の子とも遊べるようになった。最近は人の年齢の境がよくわからなくなってきたので、話して楽しい、居て心地良いを基準にしていると相手の年齢なんてどーでもいい。
ただ、わたしがあんまりチャキチャキと場を取り仕切ったりできるタイプではないので(酔っ払ったらとくに適当さに拍車がかかる)、周りにはおのずとけっこう頼りがいのある女たちが集まっているような気がする。もちろん料理の取り分けが上手な人たちばかり♡ww


お産で3,4ヶ月くらい実家に帰省していた親友が帰ってきた。その日親友の赤ちゃんに会いに彼女の家まで行って、子供をだっこしたり、旦那さんと話したりしながら、ちょうどそのあとに予定を入れていたので、2時間くらいお邪魔したあと、「じゃあねー。また来るね~!」
なんて言って新居をあとしにした。

で、その夜親友から電話がかかってきた。
「大丈夫?さっき、話ちゃんと聞けなかったから。」と彼女は言う。
さすがだ。この勘のよさ、びっくりした。
わたしのさらっとした近況報告で、昼間何をすぐさま察知したのか、親友という生き物はこんなふうに電話をよこす。わたしのちょっとしたしぐさとか、なんか考えてそうな空気感とかに敏感なのだ。

この細やかな女友達特有の優しさに久しぶりに触れて、このお見通し感にびっくりした。


で、最近思うのは、やっぱり女というものは、パワーがある生き物だなと思う。男の人にももちろんパワーがあるのだけど、女のそれとは種類が違うよう に思う。もちろん人にもよるけれど、なんというか他人を元気にさせるパワーがあるように思う。いつも大好きな女友達と会った後は、身体と心のエネルギーが 充電されているのだ。

とにかく女友達という生き物は、その外見に思いもよらずタフで、大事なもののエネルギーの変動を察知する鋭い嗅覚とそれを包み込む優しさを持つ、それはそれは魅力的な素敵な生き物だ。
しかも料理の取り分けが上手!(←しつこいww)

料理の色が本当に綺麗で、とびきりに美味しい大名にあるイタリアレストラン 「ニコーラ」