2014年9月4日木曜日

ノロケ以外のなんでもないけれど

わたしは恋人がトマトを切っている姿がとっても気に入っている。
彼とふたりで家で食事をする時にはだいたい役割分担をしながらふたりで料理の準備をする。


作る料理によってももちろん違うが、だいたいにおいて「洗って」「切る」作業は彼が担当し、わたしはそれを炒めたり、蒸したり、煮込んだりする。わたしが彼の洗った食材を炒めたり蒸したりしている間に彼がサラダを作るという流れ。
サラダを作るといってもそんなに手の凝ったものではなく、シンプルに基本はサラダ菜とトマト、オリーブオイルとヴィネガー、塩、胡椒。そこに例えば炒めたキノコとか、その時によっては旬のアスパラだとか、ポーチド・エッグとかなんだのかんだのをその時の気分で加える。
そしてわたしはというと、野菜とか肉とかを炒めるのに集中している風を装って、ちらっと横目で盗み見るのだ。彼がトマトを切るところ。

洗ったトマトを大きな手の中でくりくりっと回して、ペティナイフでへたと芯をくり抜く。それから少しだけ慎重に半分のところでナイフを引き、そのあとはざくっざくっとくし切りにする。
この一連の作業、この手の動きを見るのがなぜだかわからないけれど大好きなのだ。

セクシーだと褒めると、ふつうのことじゃない?と言って肩をすくめる。



そういえば最近また、自分の中の知らない部分に気づいた。へ~、こんな感情が実はあったんだー、というように、自分の中で巧みに覆い隠されていた負の感情の存在に気づいた。
長い間自分の中にあった”克服できない部分”を、ここ最近は、あ~わたしにはやっぱ無理なのかな~なんてあきらめ始めようかとしていた矢先、それを克服できない原因が、この負の感情にあるということに気づいた。

ちなみにその感情とはあることへの”罪悪感”。
自分でもこの存在にはびっくりした。
無意識のうちにこの”罪悪感”で自分自身を抑えつけていた。その罪悪感の存在に気づくと、わたしのいつまでたっても”克服できない部分”はそれが原因だということにするっとつながった。
そして今回それを気づくきっかけになったのが、彼がしてくれた、本当に愛情たっぷりなあることだった。(これね、ノロケ以外なんでもないっつーことは)わたしが喜ぶだろうと時間をかけてしてくれたことだった。

他の誰かを変えることはそうそうできないし、っていうかそんなことするもんじゃないと思う。だけど、自分自身が変わることはいつだってどんな時だってできる。で、変わった自分にふと気がつくと、必ずそこのきっかけには愛のある何かが関わっている。で、その愛のある何かのおかげで、自分には価値があるということを知ることになる。

その彼がしてくれたことに対してありがとうと言うと、彼は、う~ん、でもふつうのことじゃない?と言う。そういう時、彼のことをセクシーだなと感じる。

 
今まで克服できないと思っていたあの部分を、もしかしたら克服できるかもしれないと、今はなぜかわからないけど、根拠のない自信が少しだけ出てきている。ひとつ年をとった途端の出来事だったので、やっぱり年をとるというのは意味があるもんなんだな、なんて思う。

どうでもいいけど、人がトマトを切る姿をセクシーだなんて今まで思ったこともなかった。これも年のせい?


...はい、つまり、とどのつまり、結局はノロケでしたー





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