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2017年2月6日月曜日

蘇る記憶、緑の世界

ある瞬間に突然、強烈に強い光のようなものに身体全体を奪われる、何か遠い昔のことと先の未来のことがぐわんと一瞬にして身体の中で入り混ざり、異様に頭がすっきりする、そんな感覚になることが、過去に一度あった。
そして先日、ある場所に一歩入った瞬間にまた、それが起こった。


古い瓶に貼られたラベル、書かれた植物の名前をそっと指先でなぞる。
スポイドからとろり、とろりと垂れる花のエキス。押しつぶしてしまわないように、乾いた葉たちをそろりと手のひらで掬う。ハーブを丁寧にすり潰す。目を瞑る。立ち昇る香りをゆっくり吸い込む。

身体を知る。自然に触れる。宇宙との繋がりを認識する。
蘇る記憶の欠片をスプーンで掬う。月の光を数滴とろりと垂らす。
小さな古い扉。首からさげたペンダント。鍵穴の埃を払い、そっとそれを差し込む。
月の光と緑のうたの世界。緑の指が誘う、書物との密会。


例の強くてそれでいて優しい光。それはその扉を開けた瞬間だった。

”月の香りを感じたり、黒色の官能を選んだり、揺れるスカートで現実を少し覆って、ひとりにやりと匂いに潜む秘密の記憶を楽しむ。アーモンドを少し齧る。言い訳の赤色を愛する指でぬぐってもらう。お湯の中に体を沈めて、耳までそっと入れる。目を閉じる。ろうそくの光が滲む水の色を味わう。揺れるリズムに身を委ねる。”

✳︎ずっと書けていなかったこと、「ホメオパシーのこと」はここからどうぞ✳︎

愛しい日々の連続を♡

色の旋律
Blue:冬の裾の色
Violet:紫のニュアンス
Entre Rose et Rouge:前髪から宇宙まで
Rainbow:魔女の色彩
Rouge : 赤の分量


2016年11月9日水曜日

入り込む煙、気配

高校生の頃、仲のいい男友達に勧められて見た「スモーク」。画面構成、色合い、登場人物、彼らの仕草、ストーリー展開、その中の事柄ほとんどすべてが(登場人物の男のすごい柄のネクタイを除いて)わたしの好みで、それからずっと自分の中でとっておきの映画のひとつ。それをつい最近7、8年ぶりに見た。煙草ももう止めてだいぶ経つし、細かなストーリーなんてまったく覚えていなかったけれど、やっぱりとっても好きな映画で、それから、無性に嫉妬のような、この芸術作品に散らばる表現の欠片(カケラ)たちを全部ひとおもいに飲み干したい欲望にかられた。


必ずしも日常はいつもアーティスティックではない。それでもわたしは日々どこかいつも芸術の光の欠片(カケラ)を探すことをやめられないでいる。芸術になり得る何か、昇華させることのできる何か、本当の意味で美につながる何か。年々「現代アート」と呼ばれるものが自分の苦手となりつつあるなかで、美しさの欠片を探し求める目だけは失わないようにとどこか祈りにも似たものを日々紡いでいる。

ただ、それと同時にそこに混じりこむ異物も捨てられないでもいる。ろ過されたあとに残るものたち。ナルシズムとロマンチシズムが混じり合った突発的な涙みたいなもの。心の底からうっとりするためのもの。その中に光の欠片を見つけて思わず目を閉じる。カフェで女友達ととりとめのない話をすることにも、料理をしながら鼻歌を歌うことにも、瞑想することにも、ベッドの中で裸で話をすることにも、夕暮れ時大好きな街の中で途方に暮れることの中にも、紛れこむ、もの。欠片。


月の香りを感じたり、黒色の官能を選んだり、揺れるスカートで現実を少し覆って、ひとりにやりと匂いに潜む秘密の記憶を楽しむ。アーモンドを少し齧る。言い訳の赤色を愛する指でぬぐってもらう。お湯の中に体を沈めて、耳までそっと入れる。目を閉じる。ろうそくの光が滲む水の色を味わう。揺れるリズムに身を委ねる。


不思議と身体が引き寄せられる街の光、気配、空気、匂い。少しの間忘れていた、それらを立ちのぼらせる煙がわたしの身体の中に入り込む。

愛しい日々の連続を。


2016年6月16日木曜日

赤のデザート

Framboises qui sont toujours encore un peu plus acides que je ne l'imaginais
Bleu myrtille
Pain d'abeille qui ressemble à des morceaux de soleil
Graines de citrouille
Amandes cassés et noisettes
Fèves de cacao amères et croquantes
Rouge délicat de grenade
Rouge vivant de baies de goji
Couleur sensuelle d'Açai
Mélanger le tout avec une cuillère
Mettre doucement dans la bouche
C'est un bonheur...


”fruits rouges” 赤い果物たち
と、フランス語ではベリー類のことをいう
フランボワーズはいつも想像よりも決まってひとまわり酸っぱい
でもそれは病みつきになる
ブルーベリーの藍色を口に含む
プチっとした触感とともに鼻にぬける甘酸っぱい香り
ビーポレンの琥珀色 ほろ苦い太陽の粒
舌の先にかぼちゃの種をのせてみる
砕いたアーモンドとヘーゼルナッツをキュッと噛む
ほろ苦いカカオニブの食感
クコの実の力強い赤も少々
アサイーの官能の墨色
を、まぶされたザクロの実はいつにも増して頬を赤く染める
にやにやしながらスプーンで混ぜる
掬い上げるその瞬間の楽しみ 凝縮の時間


愛しい日々の連続を♡



2016年5月18日水曜日

月の光を含んだタルト


5月が来たよと風が誘う。
先になればなるほど赤さが増すもの。
その色に誘われて手にとる。
少しだけ、齧ってみる。
口の中に月から来たような冷たい酸っぱさが広がる。

残念ながら生の美しさが体にいいとは限らない。
女たちが美しさを受け継いでゆく場所は鏡の前、そして台所。
混ぜる。練る。切る。舐める。天火に入れる。


天火から出てすぐよりも、一晩月の光を染み込ませたほうがいい。
美味しいのは翌日の朝。
口の中で甘いと酸っぱいがジュワッと広がる。
寒さと暑さが混ざったような不思議なタルト。
この季節にぴったりの、月の光を含んだタルト。


Tarte à la rhubarbe vegan
ルバーブのヴェーガンタルト


愛しい日々の連続を♡



2016年3月30日水曜日

赤の分量



気になるのはあの人の爪。まだ乾いていないとろりとしたものが短く切り揃えられた爪からしたたり落ちそうだ。宝石みたいなザクロの色。昨日は気がつけば一心不乱にクリームを混ぜていた。知らないうちに日が暮れてフランボワーズも桑の実も区別がつかない。灯りをつけて出来上がった赤いクリームと真っ赤に染まった自分の手を見てぎょっとする。手の色は時間がたつほどに黒に変色していく。新居祝いのパーティでパスタなんか振る舞うなんてと自分の恋人の娘に嫌味を言った女性。そういえばあの人の長い爪もこんな色で今にも変色しそうだった。子供の頃飼っていた猫の目は暗闇で赤に光った。暗闇ではその小さな彼の体に何かが宿るんだと信じていた。書道が趣味のような団子ヘアのフランス人の彼氏を連れている、隣の席の中国人のモデル。赤のワンピース一枚。アップした黒髪。むき出しの肩と長い足の黄味がかった肌色。配分がちょうどいい。偽物の赤のソールのハイヒールはそういえばここではあんまり見かけない。前のアパートの大家のマダム、の前の夫が履いていた赤いスリムパンツ。白髪混じりの哲学者風の髪型と合わせると一層にそれは胡散臭さを引き立たせる。フランスでは赤色は女の子ではなく男の子の色。でも年を重ねると赤色は女のものになる。そうか、大人の男が身につける赤は、だから子供のようになるのか。向かいのマダムがすする赤いガスパチョ。若いトマトを手の中で器用にさばく男の手。熟したトマトを鍋の上で潰す女の手。手首に滴り落ちる薄赤い汁。目の前の皿。切り取られた舌、のようなビーツにそっとナイフを入れる。そっと。分量を間違えた批評は悪口になる。分量を間違えると何だって下品になる。口紅を塗り忘れたからといってわざわざ席をたってトイレに行く必要はない。そんな野暮なことをしなくてもトマトを齧るふりをしてテーブルの上のオイルを少しスプーンで唇にふくませればいい。わたしは黒を着て赤を飲む。

愛しい日々の連続を♡

色の旋律
Blue:冬の裾の色
Violet:紫のニュアンス
Entre Rose et Rouge:前髪から宇宙まで
Rainbow:魔女の色彩




2016年3月24日木曜日

魔女の色彩

そろりと鞘にナイフを入れる。ジュワッと滲みでるエキスとともに部屋中にヴァニラが広がる。瓶に液体を注ぎこむ。蓋を閉める寸前、目を閉じて最後のヴァニラを楽しむ。


匂いを嗅いでは摘む。大鍋でぐつぐつさせてみる。
洗って練って何度も何度も、浸して干して何度も何度も、織ってほどいて折って畳んで何度も何度も、丸めて破って何度も何度も、ぐちゃぐちゃにして...って、そんなふうに虹色を作りあげる。
女の人って複雑な生き物だねえ。と言うと、それってほぼ”重言”だねと彼は苦笑する。
返事を返す、頭痛が痛い、今の現状、馬から落馬...女は複雑...なるほど。



体でわかる満月。遠い東の海からかすかに聞こえる音。体の内側が騒ぐ。やっぱりか。産まれてた。宇宙のサイクルに引っ張られた子。何かの終わりと豊かなサイクルが始まるのは同じ変化の中にある。それから同時にパリから連絡が来る。ピエールアルディのショーウィンドウの前でアイスクリームを食べている2歳。またパリジェンヌがひとり増えたようだ。それにしてもシンクロし合う、女たちのこの繋がりはいったいなんだろう。


昔見た景色をスプーンで掬う。月の光を瓶に入れる。
美しさは、隙のない完璧さの上に存在するのではない。しかしそれは完璧に近いほどに満たされたことだ。



”月の香りを感じたり、黒色の官能を選んだり、揺れるスカートで現実を少し覆って、ひとりにやりと匂いに潜む秘密の記憶を楽しむ。アーモンドを少し齧る。言い訳の赤色を愛する指でぬぐってもらう。お湯の中に体を沈めて、耳までそっと入れる。目を閉じる。ろうそくの光が滲む水の色を味わう。揺れるリズムに身を委ねる。” 


愛しい日々の連続を♡

色の旋律
Blue:冬の裾の色
Violet:紫のニュアンス
Entre Rose et Rouge:前髪から宇宙まで





2016年2月3日水曜日

ヴェネツィアの光③ー始まりの終わり

(「ヴェネツィアの光①ー始まり」)
(「ヴェネツィアの光②ー始まりの続き」の続き)

サンマルコ広場に出てみようと朝早く外に出た。ホテルから出てすぐの小橋のふもとで不思議な気配に気づく。それでなくても夢幻的な雰囲気が漂う街なのに、なんだか今日はそれに一層拍車がかかっているように感じる。足下を見てその理由に気づく。それは霧だった。薄らと煙のように足下を漂う霧。歩く度にそれは濃くなるような感覚を覚える。


広場に着く。柱楼に囲まれた台形の広場は、想像していた以上に広い。全体を乳白色の霧に浸した広場の幻想的な雰囲気に陶然とする。これはまだ夢の続きなのではないだろうか。
広場の正面にはサンマルコ寺院の聖堂が霧の中に幻のように浮かび上がり、右手には鐘楼が高くそびえ建っているがてっぺんは霧に包まれ見えない。かつてこの街ではこの鐘楼がつくる日陰でワインを売っていたところから今でもワインのことを「日陰」=オンブラと呼んでいるらしい。今日は日向も影もない、全てが霧の中だ。そういえば、夢の中では「影」は存在するのだろうか。そんなことをとりとめもなく考えながら霧を切り分けるようにしてサンマルコ寺院の方へ進む。


わたしがその日目にしたものは、過去に見たどんな芸術作品にもない圧倒的な光と色彩の連続だった。
薄暗く照明が落とされた寺院の中に一歩入り、天井を見上げて思わず声がもれる。無数のガラス片でできた壮麗な黄金のモザイク画。緻密さで紡がれた聖者の物語。ひとつひとつ目を凝らして見ようとするも、どこから始めたらよいのか途方に暮れる。ひとつひとつに目を凝らし細部に宿る美しさを目にし、目をつむり息を飲む、ただそれの繰り返し。どれだけ見ても見足りない。後ろ髪を引かれながら寺院の奥で行われているミサを横目に通りすぎ、外へ出る。吸い込み過ぎた息を一気に吐き出す。


寺院の隣、かつてはヴェネツィアの行政すべてが行われていたというドゥ・カーレ宮殿へ。ヴェネツィア・ゴシック建築の代表とも言われる建物。白とピンクの大理石で飾られた壁面に、建物を支える大小のアーチ型の柱。中庭を眺め、簡素ながらも細部に宿る建築の美しさをなぞるように歩いていく。
上階へ上がり、大理石で装飾された豪華な装飾が施された「黄金の階段」に辿り着く。中庭の簡素さとは打って変わったような絢爛(けんらん)さに圧倒されながら一段一段階段を昇り、宮殿の内部にひとたび踏み入ると、そこはヴェネツィア派の画家たちの壁画や天井画の世界。官能的とも言える光と色彩の組み合わせ、人間の感覚に直接訴えかけるような音楽的絵画。古代文化の復興の息吹きが今もなおここに。光、そして鮮やかな色彩とともに生きている。
ある思想家が残した言葉を思い出した。「神々は色をとおして現われる。」


宮殿をあとにしても尚、街の中に続く美しさの連続。街全体に濃縮された美の確固たる存在。寒さの苦手なわたしはこの旅行前、どうせなら暖かい季節に来たかったななんて考えていたが、そんなことはまったく野暮な考えだったと気づいた。街を包む神秘的な光の趣を目にできるのは霧深いこの季節ならばこそ。
細い路地や運河に射す光の綾。太陽があたる場所と当たらない暗い場所、入り組んだ街が見せる光と影のコントラスト。霧は生き物のように街中を動き回り、夕暮れ時迷い疲れた旅人に驚くほど深い青色の情景を目の前に差し出しては、跡形もなく姿を消す。
ここ2日間ずっと霧が続いていたが今夜はすっかり霧が晴れていた。明日は満月らしい。膨れ上がった月の光が運河に移る。

その日、身体の中のどこか薄暗く光りのあたらない場所でひっそりと息をひそめていた音色が波立ちざわめきだし、美しい響きを奏でだしたような感覚を覚えた。ヴェネツィアの街でわたしは身体を丸ごと、霧とともに真の美しさに通じる光でくるまれたような錯覚に陥った。


数年前から、現代における”美しさ”に対する感覚や現代のアートの世界に疑問をわたしは持ち始めていた。高い技術とともに時間をかけた作品ではなく、鑑賞者に美しさではなくショックを与えるように意図的に頭で考え出した作品や、自己の精神治療の一環のような作品、芸術というよりもデザインというべき「お洒落な」「格好いい」作品たちが多く溢れかえっているように感じ、このところ食傷気味だった。真の意味の芸術とは、真の意味の美しさとはどういうものか。


街を発つ最終日運河のほとりで、ある思想家が言っていた言葉を思い出した。
「精神の世界という本源の世界からこの物質世界が現象している。美の源泉も精神世界にあって、それが物質界に現われ出ている。個人個人が思い描く主観的な美があるというのでなく、精神世界という普遍的な実在界にある美のイデアを、各人が自分流に具現する。」
もし彼が語ったことに真実があるとすれば...
物質界にはみ出した濃縮した美の源泉と、滲み出た色彩で形作られたものがヴェネツィアの街なのではないだろうか。

水上の都ヴェネツィア。
もしも万が一何年か後に姿を消してしまうことがあるとすれば、
それは水の底に沈むのではない。
物質界からその美しい姿が消えてしまうのでは。
あとかたもなく、霧のように。


終わり


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2016年1月28日木曜日

ヴェネツィアの光②ー始まりの続き

(「ヴェネツィアの光①ー始まり」の続き)

次の日もその次の日も、路地から路地へ夢中に歩き回った。壁が両側から迫りくるような狭い路地。光の入らない湿った路地。建物の一階をくり抜いた先にまたその道の先がある。入り口側からは行き止まりにしか見えなかった出口には建物の重厚な扉が目の前に立ち塞がり、そのまま路地は直角に折れ曲がり道が続く。ひとりしか通れない路地は、向かい側からやってくる人が通り抜けるまで待つ、入り口でその人と挨拶を交わす。ボンジョルノ。






いたるところに運河があり、似たような小橋を何本も何本も渡る。地図はやっぱりあまり役に立たない。暗く湿った路地を通り抜け、だんだんと光を目印にしているような感覚に陥る。そして疲れて少し心細くなった頃ようやく広場に出る。この街にあるのは運河、そして無数の路地、 無数の広場。そして広場には迷った旅人を迎え入れるかのように静かに佇む寺院。あるいは後ずさりして広場の端まで戻ってみて、それでも全貌を眺めることはできない巨大な古代ローマ遺跡のような教会。広場に出る度に目にする無数の教会を前に、この街とキリスト教の古い繋がりを感じる。




小橋を渡る度に客引きのゴンドラ漕ぎに呼び止められる。そういえば。水の上からのヴェネツィアはまだ見ていない。
ゴンドラは観光客向けで、ヴェネツィアの住民がゴンドラに乗るのは一生に二回。結婚式と、死んだ後墓地に運ばれる時だけだと聞いた。わたしは観光客だ。それに...もしかしたらわたしがここに来るのはこれきりかもしれない。それならばもっともっと味わいたい。もっともっとこの美しさの中に身を浸してみたい。




値段の交渉をし、ゴンドラに乗り込む。櫂になでられ水が音を立てる。建物の間をゆっくり流れていくうちに、時間の感覚が無くなっていくように感じた。小さな橋をくぐり抜ける毎に、別の世界へのトンネルの中に居るような錯覚を覚える。ゴンドラ漕ぎが運河の上で、すれ違う仲間と交わす荒いイタリア語が建物に反射して細い水路に響きわたる。

建物と建物の間から突然視界が開け、光で一瞬景色が白くなる。大運河カナル・グランデに出た。運河の真ん中で漂い、重く濃密な確固たる存在感でそびえ立つ建物を見上げる。ゆらゆらと水の上で漂う頼りない足下の感覚。やっぱりこれは夢なのではないだろうか。
夢ならいっそこの美しい景色の全てを全部飲み込んでしまおう。
わたしはただ、見た。そしてただ、流された。
水の上、ヴェネツィアの真ん中で。



次回に続く。


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2016年1月21日木曜日

ヴェネツィアの光①ー始まり

新婚旅行はヴェネツィアに。
これは夫が以前からわたしに提案していたことだった。それなら次のまとまった休暇、クリスマスのバカンスにヴェネツィアに行こう。
わたしがそれまでにヴェネツィアについて知っていたことといえば、「水の都ヴェネツィア」このキャッチフレーズと、何年か毎に必ず誰かが言う「早く行かないともう何年か後には水の下に沈んでしまうよ」というフレーズくらいだった。

空港からリムジンバスに乗り、ヴェネツィア市内に着いたのは20時過ぎ。バスから外に出る。南仏からの気温の差を感じ、慌ててマフラーをぐるぐる首に巻き付ける。もう辺りは真っ暗で深夜のような雰囲気が漂っている。リムジンバスの停留所からホテルまで定期船に乗る。これはヴァポレットと呼ばれる水上バスのこと。ヴェネツィア市内に足を一歩踏み入れると、そこには車もバスもない。歩く以外の交通手段は、そう、船だけ。


時間になり、船がゆっくりと動き出す。外を覗いてみようとするが、あたりは真っ暗な上、船の窓が汚れで曇っていて外の景色はあまり見えない。外の街灯が反射する水面の光がうねうねと真っ暗な水を波うたせている。始発駅から乗り込んだ乗客はわたしたち以外には2人だけだったが、数駅超えたあたりから徐々に増えだし、みるみるうちに船は満員になった。この時間はいかにもな観光客はわたしたち以外見当たらず、住民なのか勤め先帰りのような雰囲気の人が多く、船はイタリア語が飛び交っていた。そうだ、ここの挨拶は”Bonjour(ボンジュール)”じゃないんだと気づき、”Buongiorno”(ボンジョルノ)”ともごもごとひとり口の中で繰り返してみる。


目当ての停留所のひとつ前で、屋内から外の甲板に出る。目に映る景色に思わず息を飲む。定期船のエンジンの音。黒くゆっくりとうねる水面。水の上、街灯の光で厳かに浮かび上がる建物、そしてその連続。突然目の前に浮かび上がった幻想的な景色に打ちのめされたような気持ちになり、心臓がどこか遠くに羽ばたいて いったかのように、息を飲んでそれきり、言葉が出ない。

船はゆっくりと駅に着く。エンジンが止まる。
ようこそ、水の都、ヴェネツィアへ。


停留所を出て予約したホテルを探す。ヴェネツィアの街は住民でも迷うことがあると何かの本で読んだことがあったが、まさかここまでとは。運河沿いの大きな道から一歩路地に入ると、短い路地が次から次へと続く。人ひとりしか通れない路地、肩幅ほどしかなく建物と建物の隙間かと見間違うほどの狭い路地を横目に、迷ってはいけないとできるだけ大きな路地を選びながら進む。手元の地図は大まかな通りだけが記してあるだけだ。頭上を見上げ壁に記されている道の名前を探してみるが見つからない。この街では地図だけを頼りにはしていられないのだと知る。


ホテルも見つかり、予約していたレストランもなんとか見つけ、地元の人と観光客で賑わうその店で食事も済ませ、店を出たのは23時過ぎ。ホテルへの帰路、 ちょっと寄り道してみようかと路地から路地を歩き回る。深夜の散歩。もう街には誰もいない。音もなく静まりかえった街。小さな橋を何本も渡り、道に迷う。教会の12時の鐘が鳴り響く。一体、ここはどこ。心細さに途方に暮れる。どこに迷い込んでしまったのだろう。迷い人を幻惑するようにぽつんと残された店の明かりで闇に浮かびあがるショーウィンドウのヴェネツィアンマスクが笑う。



次回に続く。


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2015年12月31日木曜日

物乞い、BOBO、目線、光の日

よく行く近所の食品店の前に、いつも座っている年のころ60代前後の女性がいる。段ボールや毛布にくるまれて、道ゆく人、特にその食品店に入っていく、もしくは店から出て行く人に声をかけ、物乞いをしている。「Bonjour, 食べるためのお金をください。Bonne santé(あなたによい健康を)!」
パリに住んでいた時もそうだったが、フランスでは道端で物乞いをしている人を見ることは日常茶飯事。それでもわたしは物乞いの前を通るとき、いつも少し居心地の悪い気持ちになり、今になってもあまり慣れない。
わたしは食品店でその女性の前を通るときも、いつも困ったような気持ちになって少し目をふせて足早に歩いていた。

ヴェネツィアのこうもり

先日、クリスマスの買い出しで夫とふたりでその店に行ったとき、いつものようにその女性が店の前に座っていた。「Bonjour, 食べるためのお金をください。」といつものようにわたしたちに声をかけてきた。わたしが目を伏せて通り過ぎようとした時、夫がその女性に「Bonjour」と挨拶を返した。その女性がいつものように「Bonne santé(あなたによい健康を)!」と言うと、彼は「À vous aussi(あなたにも)」と返していた。

ヴェネツィアの路地

なぜ今まで、わたしはこの当たり前のことに気がつかなかったのだろうと愕然とした。フランスでは、わたしは毎日毎日、通りすがりの人、店の人、近所の人とこうやって、Bonjour(こんにちは)やBonne journée(よい一日を)なんて1日に何回も言い交わしている。物乞いだろうとそうでなかろうと同じことではないか。不審者なら話は別。だけれど、物乞いをしている人だからと言って、挨拶を返さず目をそらす相手なのだろうか。


フランス語でBOBO(ボボ)という言葉がある。これはブルジョワ・ボヘミアンの略、1999年にできた英語で、フランスでは、裕福な家庭で教養を受けて育つが、資産に縛られて意味のない習慣に陥るためではなく経済的な成功を楽しみながらも自由な精神を持った反逆者でありたいと思っている人たちのことを指す。
日本のファッション雑誌では、このBOBOという言葉がいかにもお洒落で憧れの対象であるかのように「パリのBOBOの素敵ライフ」なんて書かれて特集を組まれているのに当初は驚いたけれど、実はフランス人はこの単語を決して褒め言葉では使わない。少し皮肉をこめて揶揄する時に使う。人に聞こえたら馬鹿にしていると思われるからあまり大きな声では言わないで、なんて言われることもある。
裕福に暮らしているけれど、見るからにお金持ち臭い生活からは離れ、庶民的な地区に住み自由な職業に就き、文化的なことに興味を持つ人。人とは違う新しいもの、美しいもの、高級なものを買いたがる、”本物志向”。環境問題にも心を痛め、SNSでも声高らかに意見する。


じゃあなんで大きな声で褒めないのかというと、本物志向の本物が一体何なのかということを結局わかっていない人だと、フランス人たちは皮肉っているからなのだ。お金に余裕がある豊かで便利な生活は決して手放したくないが、自分は労働者と同じ目線を持っている視野が広く何にも縛られていないと自分で信じている人のことを揶揄する。例えば、環境問題に心を痛めてるけれど、スマートフォンやパソコンはいつも最新のものを持つ(これらがどれだけ環境問題になっているかは考えていない)…、遠い国の孤児たちに寄付はするけれど同じ国の低所得者たち用の施設建設には反対をする…等。昔ながらの職人が住む庶民地区が”誰にもまだ開拓されていないお洒落な地域”ということで、彼らが高級地区から越してきて住み始め、BOBOたち向けの店が次々と出来、その地区が注目され、そのために家賃が高騰し、職人たちは住めなくなってしまった…、そしてその地区に低所得者用の住宅の計画があがると猛反対したのはBOBOたちだった。
結局のところ、何も分かっていない人、何も本質を見ていない人、お金持ち臭さを嫌うけれどお金がないと何もできない人、こんな感じでフランス人はこの単語を使う。


物乞いのその女性に対する自分の態度をかえりみ、愕然とした。目を合わせ挨拶さえできなかった自分の態度に。
わたしはブルジョワではないしお金持ちでもないから、BOBOになんてなり得ないのだけど、それでも精神的なBOBO、自分の目線だけで物事を判断し、違う角度から物事を見れずにいること、遠くのことには心は広いけれど自分に関わる近くのことには自己中心的になること、には誰でもがなり得ると思っている。


ヴェネツィアでこうもり2


できることから少しずつやっていこうと思っているものの、自分のやっていることのあまりにも小ささに途方もない気持ちになることがある。自分のやろうとしていることと、自分がやっていることの大きな差に気づき、愕然とするときがある。自分の弱い部分、醜い部分に目をふせたくなってしまうことがある。目線の高さ変えることで違う世界が見えるということを忘れている時がある。

2015年も残すところあと少し、やり始めたばっかりでまだまだ終わりがみえないこともたくさんあって少し溜め息をつきたくなることもある。それでも、こだわってるもの、わだかまっているものが少しずつなくなっていて、ああ楽になったな〜なんて思えるなら、少しは自分を赦し、手放すことができているということだろうか。

ヴェネツィアでは至る所でカトリックの街であることを感じる

今年2015年の最後、クリスマスのバカンスで訪れたヴェネツィアで、ある光を見た。それは芸術によってもたらされた光で、その光はわたしに美しさに対する大きな価値観の変革を与えた。まだその光から受けたものはわたしの体内でどくどくと波打ち躍動しているので、また落ち着いたらここに書いてみたい。


フランスではクリスマスは家族と一緒に過ごす日、大切なものを分かち合う日とされていて、いわば日本のお正月のようなもの。1年で一番大事な日だというフランス人が多い。クリスマスはその昔、光の日だと言われていた。
その日に大切な人から贈ってもらった言葉を、今度は日本の光の日に、わたしから日本の大切な人たちへ。迷いの中にいるわたしの大事な人へ。

幸せいっぱいの光があなたを照らし続けますように。
その光が、喜びと魂の平穏、思いやりと明晰さ、忍耐力と寛容さをあなたにもたらしますように。
その光が、あなたに合う道を照らしますように。
あなたが持つ長所と多くの才能をあなたが自分自信で見ることができますように。
愛をこめて。

2016年も愛しい日々の連続を♡

ヴェネツィアで感じた光とともに



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2015年10月8日木曜日

深い関係、光の重なり、変化

うっかりと本の世界に引き込まれてしまい、あるいは、すっぽりお尻を包み込むひとり掛けのソファとうっかり深い関係になってしまい、気がつくと窓の外はもう薄暗い。思いがけずカフェに長居をしてしまった。急いで勘定を済ませ、外に出た。


ぼってりと空全体を密閉している灰色の雲。肌寒さを感じ、シャツの襟元を寄せる。今にも雨が降りそうで、家路を急ぐ。帰宅時のラッシュだ、あちこちで車のクラクションが鳴り響く。
同じように家路を急いでいるのか、早足で歩く若い男がわたしを追い越した。追い越し際、その男が吸っているタバコの煙がわたしの顔に触れる。
その瞬間、時が止まった。何か強烈な記憶の気配が瞬時に体を包み込んだ。
そしてその感覚の懐かしさに、クラクラした。


曇天の空、肌寒さ、タバコの煙、クラクションの喧噪、灰色のグラデーションに包まれた街。南仏の青の街を沈ませ突如浮き上がったモノクロームの空間。
それは身体に染み込んだParisの記憶。

永遠を感じさせる存在と静けさの音色は、完璧な調和を。
控えめな太陽も妖艶な月も、その軌道をめぐり
光も力もその場所にある。
瞬間、毎時、すべてがそこにある。
光が宿っている。


ここ3日間、自分の中で、何か少しずつの大きな変化を感じている。
大きくバランスが崩れ、自分でもコントロールできない何かが動いた。
自分が今まで克服できなかった内側の固い塊の存在を再認識し、それに面と向かっている。いよいよそれを溶かし始める時、始められる時が、きたのかもしれない。


変えることができないことについては平穏にそれを受け入れる恵を。
変えるべきことについてはそれを変えてゆく勇気を。
そして、その二つを見分ける知恵を。
(The serenity Prayer より引用)

そばにいてくれる愛しい人への愛を。
そして、愛しい日々の連続を♡