2014年5月20日火曜日

前髪から宇宙まで

わたしは3歳の頃から、綺麗で可愛い女の人が大好きだ。恋愛対象は男性だけど、それ以外にはあまりにも女の人が好きなので、そしてそれがあからさまなので、その時付き合っていた男性からバイじゃないかと本気で疑われた経験が、別々に過去2度ほどある。(ゲイでもバイでもない。)
で、綺麗で可愛い女の人が大好きなんだけど、できれば外見の美しさに比例して、自分の内面のことをよく知っていて、知性がある、というか中身にも豊かさががある人のほうがいいなと思う。


自分の髪の毛の癖やアイラインの入れ方、似合うパンツの形、似合う香水、好きなブランドの新作のコレクション、自分にぴったりの前髪の丈...とかを熟知しているのと同じように、例えば、
自分の身体の弱いところ、どんな時に自分の体の元気がなくなるかとか、
自分の所作、立ち振る舞い、他人に対する態度や言動を把握しているか...自分の歩いている後ろ姿とか想像つく??
自分が疲れている時に、他人にどういう態度をとってるかとか、
楽しい気分の時どんなふうに笑ってるかとか。
自分のことだけじゃなくて、例えば地球の裏側の生活とか、海の生態系とか、世界で起こっている出来事とか、宇宙に関することとか、他人って何かとか。
誰かを愛してる?他人とどんな関わりを求めてる?
ちなみに、愛とは何か、とか考えてみた? で、答え出た?
夢は?自分にとって本当に大切な人って誰?
自分の内面のどこが好き?



そういう内面の宇宙を知らないまま、問いかけないまま、髪の毛を綺麗に整えて、服を着て、口紅を塗って、外に出ることはできる。そのまま子供を産んで、育てることもできるのかもしれない。
そんなよくわからない宇宙のことなんか考えなくても、十分に綺麗だし、髪の毛の巻き方とかスカート丈とジャケットのバランスさえよければ一日OK!なのかもしれない。
だけどそういう”よくわからないこと”に無頓着で見た目だけを飾って、そういう美しさっていつまで続くのだろうか?

でもだからといって、哲学書とか読みながら、眉毛ボーボー、肌もカサカサ、髪の毛パッサパサ、お洋服もダッサダサも、それはもう女子として問題外。
うーん...自分の内面と向き合うことと、鏡の自分と向き合うこと、やっぱり両方大切か...



で、そんなことを考えていたら、というわけではないのだけど、普段口紅は塗らないのに、ふと、なんとなく赤い口紅をつけてみたくなった。なんでかはよくわからないけれど、女子というのはいちいち説明つかないことも多いものなのだ。で、赤い口紅、持っていないので、買ってみた。



で、さっそくその口紅をつけてみて恋人に見てもらった。どう?

「う~ん、赤っていうかそれピンクじゃない?」
...え?鏡を見てみると、実際わたしの唇は赤に近いピンク色になっている。
「えー、お店で試した時は赤だと思ったのに!!」
「いいんじゃない?僕は赤の口紅ってなんか下品なイメージがあってあんまり好きじゃないけど、そのピンクは似合ってると思うよ?」
「いやだ!赤じゃなきゃ意味ない!!デニムとTシャツに赤の口紅つけたかったの!!」というと、
「なんか、それって昔フランスではみんな高校生の時してたよ、ジーンズとTシャツに赤い口紅。80年代?いや、90年代くらいかな?それ?そういうイメージ?」
「...違う!違う!違ーう!!!したいのはそんなんじゃない!!」

...全然恋人にわたしの”赤い口紅”イメージは伝わらなかった。
わたしのしたいのは、断じて”ちょっぴり反抗期・ハイスクールスチューデンツ”じゃないのに...

赤とピンクのやりとりで、わたしは必死になっているので、フランス語のRouge(赤色)とRose(ピンク色)の単語自体もごっちゃになってきて、ついに彼がフランス人みたいに手の平を上に向けて肩をすくめる。(...フランス人だ、忘れるけど)



う~ん、つまり、まだまだいろんなものがチグハグしているな、自分!
前髪とか宇宙とかの前に、赤とピンク、きちんと見分けれるようにならないと...、フランス語でも言い間違いわないようにしないと...ww

まあいいか。他人の意見を取り入れる柔軟さも、大事なことだし...
もったいないから、このピンク色もつけてみよう。
Pas mal(パ・マル)...悪くないかもしれない。



2014年5月12日月曜日

ページをめくりながら

いつもお風呂に本を持ちこんで、湯船につかりながら本を読むのがだいたい毎日の日課で、風呂をためている間に、今日は何を読もうかなんて考えるのが大好きだ。続きが気になってしょうがなくてぐーっとそれ一筋で一気に読み終えるものもあれば、その時の気分によって、途中でやめて違うものを読み始めたりすることも多い。その本が面白くないというのではなくて、ただただその時の気分に沿って選んでいるということで、それは食事と同じ。今、何を食べたいか / 読みたいか。



で、数日前、いつものように何を読もうか本を選んでいた時、ふと”あの本”のことを思いだした。半年前くらいに買って、読みたいところまで読んで、半分くらいのところで満足して、途中でやめていた本。なぜかその本が気になったので、それを引っ張り出して、湯船につかって、その途中の部分から読み出した。



なぜ、今、このタイミングで、この本を手にとったのだろうと思ったことが今までに何回あっただろうか。

またそれだった。

ここ何ヶ月間自分の中で考えていたことの答えが、その本の読みかけの部分からあとに書かれてあった。




わたしたちは、「問いかけはいつも自分のなかで生まれ、そしてその答えは探し出すもの」、そう思っている。
だけど、本当は違う、逆なのだ。

その”答え”はすでにそこにある。すでに存在している。
そして「問うこと」とは、その答えに対して、”何とかして注意を向けさせ、意識の焦点を当てさせるための時間を与えられている。” ということなのではないだろうか。
つまり、その”答え”に引っ張られているのは自分自身なのだ。その答えは本当はすでに自分自身の中に存在している。

問題と答えは常に自分自身の中にある。起きている現実は、その投影にすぎない。
ということは、本当は物事はとてもシンプルだと思える。
自分の認識したことしか、現実には起きないということ。





隣で恋人が、わたしの親友にメッセージを書いている。
もうすぐ親友が子供を産む。
ワクワクする現実は、わたし自身の中にある。
ページをめくりながら、また問い始める。







2014年5月6日火曜日

5月の楽しみ方

なぜ、屋外で何かを食べるのはあんなにわくわくするのだろうか?
それが芝生の上、となるとわたしの中でわくわくはかなりのレベルになる。わたしはピクニックが大好きなのだ。

で、やっと暖かくなったので、GWの真ん中の日、恋人とピクニックをしようということになった。お昼ご飯に持って行くのは、子供の頃よく食べたサンドウィッチを彼が作りたいと言ったので、そのサンドウィッチとレンズ豆のサラダ、前の日に焼いたヨーグルトのタルト。
あとは、敷物と、本何冊かをかごに入れて出発。


もともと行くつもりだった場所へは着けず(バスを乗り間違えた)、急遽目的地を変更してたどり着いた公園。そこは気づいたら歩いても来れる距離にあった。わたしたちの好みの公園というのは、できるだけ自然に近い森の中のような感じで、遊具とかもなくて、ただただ芝生があるような場所なのだけど、この公園はその想像にぴったりだった。しかも誰もいない。時々見かけるのは老夫婦か、ジョギングスーツを来て本気のランニングをしている人。


ふたりともお腹ぺこぺこだったので、敷物を敷いて、すぐにサンドウィッチを頬張る。このサンドウィッチ、Pain bagnat (パン・バーニャ)という名前の南仏のサンドウィッチで、サラダ・ニソワーズをそのままパンに挟んだ豪快なものだけど、とっても美味しい。ただし、口を縦にも横にもめいいっぱい開けないと食べられない。豪快にあんぐり口を開けてがっぷり食いつく。


それからごろんと寝転ぶ。恋人は3秒で寝息をたてている。
寝て、日差しに合わせて移動して、寝て、本読んで、また日差しに合わせて移動して、おやつにタルト食べて、また寝て。 ただそれだけを、のんびりと。

地面から立ち上る緑の濃い匂いと、閉じた瞼の奥でちらちらと揺れる柔らかい光を感じながら、ただただのんびりを楽しむ。

少し肌寒くなったので、ふたりでむくりと起き上がる。伸びをして、敷物を畳んで、荷物をまとめて公園の中を少し散歩する。
することはたったこれだけなんだけど、こういう休日が大好きだ。

5月はピクニックがぴったりの月。まだまだ始まったばっかり♡