2018年10月21日日曜日

とても、とても私的なこと

誕生日を境にして、自分を取り巻く環境がゴロゴロと変わりだした。いつまでたっても大人になりきれていない部分があるわたしを見かねた何者かが、こうなったら強行突破、周りごと揺らしをかけてやれと言わんばかりに、わたし自身の変化を強行に促進させているようなことが起こり出した。もちろん、「人生の大きな変化のある前後になぜかいつもParisに呼ばれ、なぜかParisへ行くことになる」という長年のわたしの人生の流れの掟のようなものはもちろん健在し、前記事でも書いたけれど、変化の波の真只中わたしはなぜかまたParisにいた。



変化をひと一番恐がり、変化が起こりそうな気配をいち早く察してはジタバタと抵抗し、恐怖におののきまくりすばしこく逃げ回ろうとするくせに、いざ変化へ突入してみると、いつかしらその変化が楽しいことに思えてきて変化前の恐がり様をコロリと忘れてしまうのは、近しい人曰く、「ティピック・ド・Ayami」、それはわたしの典型らしい。

それはそうと、今回Parisに行く前と、帰ってきた後では、何か自分の中の感覚が目に見えて大きく違っていた。
ご多分に漏れず今回の変化前の動揺はひどかったのだけれど、少しいつもと違ったのは、変化前の同様も変化そのものも、それから変化後の世界も、全部まるごとごくりと受け入れてみようと思ったこと。そして、生まれ持ったデカい口を利用してくじらみたいに変化の波ごとぶわっと飲み込む勢いで、変化の真ん中に鎮座してみた。



それでわたしは今もその変化の真っ最中にいるのだけれど、この変化全体をすべて受け入れてみるという試みは、本当にわたしを根本から変えるひとつの大きな点になった。

まずは、自分の不安やら恐怖と距離をとり観察してみることをし始めたみた。そうしてしばらくすると、今までどれだけ自分が不安を主な材料にして自分の人生を構築してきたのかが見えてきた。これは結構な驚きだった。だって自分は自分の人生をそれなりに楽しいことや嬉しいことなどを土台にして築いてきたと、そうなんとなく思っていたからだった。

そうこうしているうちに、日々の小さな(でもないのかもしれない)楽しみや幸せがどんどん目に入るようになり、気がついてみると「なぜかはよくわからないけれどなんだか嬉しい気持ち」で過ごしている時間がほとんどで、不安や怒りを感じることが少なくなってきた。



そしておととい、海に入った。
わたしは週一、二で、早朝に海岸沿いをジョギングし、そのまま途中の海に降りて泳ぎ、またジョギングをして家に帰って来るという、ひとりトライアスロン(自転車競技が欠けているからビアスロン?)的なことを楽しんでいる。この早朝の海というのはなんと表現していいのかわからないくらい、いいエネルギーで満ちていて、体を水の中に滑り込ませた瞬間から、大きな何かに包み込まれているような、そしてそれと同時に自分が解放されるような、とても心地よい感覚に抱かれる。そのことを知って以来、この早朝マラソン&海水浴にハマっている。

18/10/2018 8am

それがおとといの朝は違った。
いつものように水の中に入り泳ぎ始めると、すぐに何か居心地のよくないものが身体にまとまりつくような感覚を覚えた。くらげがいたらどうしようかということで不安な気持ちなのかな?と最初は考えながら泳ぎすすめていたのだけれど、いつものように水中は透明で澄んでいて、どうやらくらげうんぬんの不安ではないらしい。そのままその嫌な感覚を振り払うようにして泳ぎ続けているうちに、ふと、ああ!これはわたしの中にある不安の反映なんだ、とピンときた。そうすると、わたしにはまだ解放する不安が身体に残っていて、それを解放する機会を今得ているのだということに気がついた。すると目の前に太陽の光がキラキラと水の中自分の斜め前に差し込んでいるのが目に入った。そして、水中でその光に吸い込まれるていくような煙のようなものが見えた。
なんだか水の中が自分の思考そのものを反映したように思え、不思議な感覚を覚えた。くるりと背を下に反転し、空をみながら太陽に照らされそのままぷかぷかと浮かんでみた。そしていつのまにか嫌な感覚はもうどこにもなくなっていることに気づいた。それからいつものように海岸まで泳ぎ返した。

18/10/2018 8am

この大きな自分の変化の中、じわじわと縁がどんどん深くより良くなっていく人もいれば、反対になぜかふわっと自然に縁遠くなる人もいて、それは取捨択一(悪いものや不必要なものを捨てて、よいもの、必要なものを選び取ること。 取るべきものと捨てるべきものとを選択するということ)、すべて必要な流れであるということが、最近身をもって体感し、五臓六腑にストンストンと落ちている。

仲のすごくいい友達とこの変化の不思議な感覚を共感したり影響しあったり、友達から突然ポーンと楽しいカミングアウトを受けたり、自分だけでなくて周りの人たちもそれぞれの変化の中にいるのだ。自分だけが存在しているのではない。


愛しい日々の連続を♡
...変化の真っ只中、思考の海を泳いでいる人へ


2018年8月21日火曜日

手から生み出すものたち

この間SNSで日本人のモデルの女の人が、「断捨離したよー、いつもお洋服はチャリティー行きだよー」と自分のスッキリとしたクローゼットの写真を投稿していた。ふと、きっとその膨大のお洋服は御付きの人か雑誌社の人かなんかが引き取りにきたりして、自分の手でチャリティー先に持っていったりダンボールに詰めて住所書いて送ったりなんてしないんだろうなーという考えが浮かんだ。


フランスに来てたくさんの人と知り合い、たくさんの友達ができた。仲のいい友達はみんな例えばモンサントには反対だし、ほとんどが地産地消や無農薬野菜を消費することに興味を持っている。

でもその中でも何人かの友達たちは「消費すること」だけでなく、実際にその動きに自らの手で、体で、加っている。材料を自ら調達しに行き、自分の手でものを作り出し、自分の手でそれを売りに出す。そういう友達たちは不思議なことに、”自分たちがしていること”と”考えていること”の間に矛盾が少ない。
「材料を発注して工場で誰かに作ってもらって、そしてそれを誰かに売ってもらう」ということが決して悪いというわけではない。ただ、「自らの体を使う」というところから離れれば離れるほど、いろんな矛盾が増えてくるように思う。食べるものには気をつけるけど冷房はがんがん消費していたり、電気自転車には反対だと言いながらどんどん魚を消費する。自分がしていることと、海にクラゲが増え続ける原因は全く繋がっていない。

コンピュータにスマートフォンにと、もちろん言い出したらキリがないし、完璧なんて到底無理だ。ただ、何かを守るためには自分の慣れ親しんだ快適さを多少でも犠牲にする必要があるのかもしれない。このふたつは必ずしも比例しない。


自ら体を使って社会に参加している友達たちは環境問題がどうのとかチャリティーがどうのとか、とくに大げさなことを言わない。きっと自分たちがしている小さなことがすべてに繋がっていることを体得しているからなんだろう。彼らは時々こっそりと「Bobo」や「ヒップスター」を笑い飛ばしている。カッコだけ一丁前で、中身がない、お金でできることだけ参加して、声高にエコロを叫ぶ、彼らはそれで満足なんだからまあいいんだけどね、と。

これはわたし自身への戒めであり、注意喚起だ。時々、自分たちの体を通して社会に加わり現実を生きている友達たちに、懺悔みたいに自分の矛盾を聞いてもらってはわたしは自分のゆるんだ靴ひもをぎゅっと締め直す。都会に生きるということは、気づかない間にもすくすく育ってしまう「Bobo精神」との戦いだ。


無知であること、またはそのことさえ気づかずに色々知っているつもりで声高に主張して快適な生活を送ることは、なんて楽なのだろうか。可愛い、快適、環境に優しい、それらは必ず誰かが後ろで体を使ってくれている。もしくは何かがもぎ取られている。「買う」ことだけではやっぱり社会はこのままだ。



そんなことを考えながら、今日も海に身を浸す。手を横に広げて指先で水をかいてみる。太腿からふくらはぎ、それから足の指先を順に動かして海の中を泳ぎすすむ。身体の感覚を忘れないように。


愛しい日々の連続を♡

2018年8月9日木曜日

フレンチ女子

フランスに住んでいると、フランスに住む外国人、すなわちフランス人以外の人からでた、フランス人の悪口を耳にすることがよくある。特にフランス人女子のことは外国人女子たちがよく口にする話題だ。

彼女たちは初対面などではおべんちゃらを使って笑ったりあまりしないので、冷たいとか愛想がないとか。自分の意見をはっきりと言う人がほとんどで、プライドが高いとか自己中だとか。
言いたいことはよくわかる。目が合ってもとくに笑うわけでもないし(もちろんそうでない人もいる。)、好き嫌いもオブラートに包むことはないし、反対意見でも臆することなくはっきり言う。わたしも最初の頃は彼女たちはとっつきにくい人種なのではないかと感じたこともあったけれど、彼女たちを知るに連れて、いつからかそれは勘違いだったことに気がついた。

collages by Ernesto Artillo

会話をきちんとすると、ちゃんと笑うし気も使ってくれる。ただ最初から大げさな愛情表現をしないだけなんだと気がついた。わたし自身がもともと、さほど親しくもない人との大げさなやりとりが少し苦手で、英語圏の人たちに多い、初対面からの親しげな距離感にはわたしはむしろ後ずさりをしてしまうことが多い。だから彼女たちの態度や佇まいはわたしにはかえって居心地がよかったりする。(もちろん"この人なんか苦手!嫌!"っていう人もいる。それはフランス人でもそうでなくても同じこと。)

collages by Ernesto Artillo

みんなが言うほど付き合いにくい女の子たちじゃないんだけどなあ、というのがわたしの思うところ。もちろんプライドは高いし、ほとんどが大なり小なり精神的な問題を抱えているけれど、わたしから見れば、フランス人に限らず周りほぼ全員が精神的な問題を抱えているし、自分のそれに気づいていない人がほとんどだ。
たいていフランス人の女の子たちとは仲良くなると、それぞれが抱える問題を一緒に深く話し合える。時に笑いながら、時にど真剣に、時にお互いを慰め合いながら。一方的にだらだら語り続けるわけでもなく、ただ同調し合うわけでもなく、感じたことや考察をじっくり話せるし、きちんと意見を伝えてくれるので、何かを相談するには本当に心強い人たちだと思う。シニカルなことも惜しげもなくバンバン言ってくるけれど、優しいこともたくさん伝えてくれる人たちだ。

collages by Ernesto Artillo

ただ日本人はもちろんのこと、アメリカ人にもイタリア人にもノルウェー人にもブラジル人にもモロッコ人にもない、フランス人の女の子の独特の雰囲気というのが彼女たちには、ある。結局のところ、それが他の外国人女子たちの、まあざっくり大雑把に言えば、"嫉妬"を買ってるのではないのだろうか、なんて思うのだ。あの独特の雰囲気を醸し出してれば醸し出している女子ほど、わたしはなんだか好きなんだけどなあ。


愛しい日々の連続を♡



Collages by E
rnesto Artillo

耳コンプレックス

わたしは自分の耳の形が嫌いだ。頭に貼りつかず、立っているので、耳のでるショートカットにすると(絶対にしないけれどw)まるでお猿さんみたいなのだ。同じような耳の形の人が、バーンとその耳をだしてる髪型を見ると、まるで恥部をさらけ出してるのを見た気分になり(その人に非がないことは百も承知!)、思わず目をそらせてしまう。

collages by Dain


幼少の頃、楽器の演奏のために鍛錬されたわたしの耳は、音高を敏感に感じ取る絶対音感を習得した。大人になった今でも、細かな音の高さや音色の違いが気になって仕方がない。例えば、フランス人ではない人が発するフランス語の発音の癖、これが気になって仕方がない(英語の場合も然り)。フランス語とはまた違う言語に聞こえてしまい、いつも途中でうまく聞き取れなくなってしまう。それに加えて、自分の発音の狂いも気になって仕方がない。自分の口から発した発音とネイティブから普段発される発音との違いが二重に重なって頭に響くので、その差の不協和音にイライラする。これはわたしの超神経質なところのひとつで、どうしても無視することができない。フランスに来てからこの3年弱、この神経症は続いている。

collages by Dain


この間、中医学の整体の先生に、「君の耳はある一定の物事が聞こえていない。耳の機能自体は問題がないから、これは精神的なものなんだけどね。ある一定の音をブロックしているんだよ。」と言われた。

collages by Dain


夜、友達のカフェに仲間たちと集まってテラスで話している時、なぜか耳の話題になった。わたしが自分の耳の形が嫌いだと言うと、周りの男子たちはそらいい獲物を見つけたとばかりに、携帯の懐中電灯でわたしの耳をピカリと照らし、わたしの耳を引っ張りだして遊びだす。自分の体の一部が嫌いなんて情けないよと、フランス人たちは全くこちらの気持ちを汲んでくれない。日頃隠されているわたしの耳は、不本意なスポットライトを当てられ、萎縮して少ししぼんでたりするかもと期待したけれど、やっぱりピンと立ちあがったままだった。

collages by Raphael Vicenzi


聞こえ過ぎたり、聞こえなかったり。心と体、内側と外界は体のあらゆる部分を通してつながりをみせる。他人には全くどうでもいいであろう耳問題、わたしは密かに研究を進めている...w


愛しい日々の連続を♡


2018年7月23日月曜日

愛しい身体

ある友達から紹介されて、中医学を基本とした鍼治療を行う整体に通っている。整体と言っても普通の整体とは違い少し変わっている。少し変わっていることの詳細はまた機会があれば書くとして、男性と女性がふたりがかりで施術をおこなってくれる。男性の先生が身体を観察し骨や内臓の位置を整えながら体が発している声をきいていく。体があげている悲鳴を汲み取っていくことは心の問題を洗い出していくことになる。その悲鳴の原因になっている心の問題を女性の先生と一緒に紐解いていくという流れ。


「体が何かを決めたみたいなことを表明しているけど、何か思い当たることはある?」と聞かれ、思い当たることがすぐに見つからなかったので少し考えてからなんとなく感じることを伝えると、「うーん、体はそういうことを言っているじゃないようなんだけどなあ。」と先生はいう。そして少しずつ自分の体が言い表そうとしていることを先生たちと一緒に探っていく。


1回目、施術の半分あたりから、わたしは寝台に寝たまま、気がついたらポロポロこぼれる涙を出しっぱなしにしていた。鍼を全身にさされて寝かされている間も感情が後から後から涙と一緒に溢れてくる。「やっと涙が出てきたね。それでいいんだよ。涙と一緒に悲しい感情もすべて出るからね。尿と一緒にも悲しい感情は排出されるからたくさん尿がでるように鍼をさしているからね。」とムッシュに声をかけられる。


初めての診療が終わり診療所を出た後、体と心の緊張がとけている身体を抱え、夕方帰宅ラッシュと観光客で満員のトラムにはすぐに乗る気にならなかったので、少し近くのカフェで休んでいくことにした。注文したノワゼットを一口飲んだあたりから、また自然に涙が次から次から溢れてくる。今にも雨が降り出しそうな灰色の空を見上げながら、この体と心の不思議な反応に身をまかせていた。身体はすでに知っているのに、自分自身が分かっていない問題のどれだけ多いことかと、施術を重ねる度に驚く。1時間半から2時間の施術のあと身体はもちろん、心が軽くなっている感じに毎回不思議な感覚を覚える。

なぜわたしたちは肉体を持って生まれているのか。ある本によると、心あるいは魂が抱えている問題を表面化し認識させるためだという。



施術を重ねる毎に少しずずわたしの身体に変化が起きているを感じる。体が必死で何かを教えてくれているということを考えると、なんて愛しいものをわたしは持っているんだろうかと思わずにはいられない。ヨガも、もう少ししたらまた再開できるかもしれないなあ。

愛しい日々の連続を♡


2018年7月10日火曜日

真夏の興奮ファッション考

大好きな南仏の夏にひとつだけつまらないことがあるとすれば、お洒落の幅がいっきに狭まること。暑いので気取ったバーやレストランなんかに行かない限り、いつもタンクトップのショートパンツという出で立ちになってしまう。これは本当につまらない。
モード界ではオートクチュールコレクションが行われていたばかりというのに、なんというかけ離れた日常でしょう。

なんてくさくさしていた矢先、ネットの記事で目にしたSchiaparelli(スキャパレリ)のパリ、オペラガルニエで行われたオートクチュールコレクションの写真。エキサイティングなコレクションたちに、何年ぶりだろう、というくらいに久しぶりに興奮してしまった。

                         





フランスに住んでいると、自分でも知らず知らずのうちに保守的な洋服を着るようになってしまう傾向にある。フランスではニューヨークやロンドンのような個性的なファッションよりも、どちらかというとシンプルにお洒落を楽しむ人が多い。よくいえばフレンチシックというのだろうけれど、これは目鼻立のはっきりしたフランスの女の子が、しかもその独特のちょっと突き放したような雰囲気をまとってこそ似合うのであって、わたしたちのっぺりん顔といつも薄く笑顔を絶やさない日本人にはどうしても安物感がただよってしまう気がする。元気溌剌としたアングロサクソン独特の雰囲気にもあまりそぐわない。そうわかっていても気付いたらどうも保守的な方へ感覚が流されていく。
そんなところで、Schiaparelliの最新秋冬のコレクションを目にしたわけだ。




細部のディテールは繊細で、女性の体を綺麗に見せるラインが嫌味なく際立つ。それでいてどこかマスキュランな雰囲気が漂い、かつ大胆でアーティスティックなヴィンテージ服のようなBertand Guyonのデザインしたコレクションは、ズキュンと真っ向からツボ!
(ツボ!と言っても買えるというわけでは到底ないのだけれど)





クリエイティビティな感覚に刺激を受け、創作意欲に燃えた興奮冷めやらぬ週末、じゃあ今日はちょっとブラウスに長ズボン(!)でも、と履いて外に出るやいなや汗べったり、結局ショーパンに着替えるはめになるのだ。

で、朝からひとりそそくさとスポーツ用品を買いに行っているシリルからSMSで写真が届く。
「これ買おうと思うけどどう思う?」



ああ、なんてモードからかけ離れた日常なんでしょう...

愛しい日々の連続を♡


2018年7月1日日曜日

ニースのブルックリンへ

友達のアレクサンドラが周りのクリエイターの子たちとオープンしたアトリエ&コーワーキングスペース、L'Atelier ouvert のオープ二ング。


2日前にアトリエを訪れた時には、え?明後日展示会初日でしょ?大丈夫?みたいになんにも準備進んでないみたいにみえたのに、そこはさすがフランス人、土壇場の底力とセンスで、オープニングは超素敵に仕上がっていた。

                             

このアトリエはアレックスが作る服のブランドPiece à porter を中心に、服作りや物作りをする人たちとシェアするためのスペースで、ニースのセンターから少しだけ外れた場所にある。NYでいうとブルックリンにあるアトリエみたいだななんて勝手に思っている。



わたしがアレックスと繋がったのもアレックスの作る超可愛い洋服がきっかけで、SNSやらネット上の繋がりが多い今、物作りから縁が繋がるって素敵なことだ。



今回の展示のテーマは写真家アラーキー(荒木経惟)で、わたしもローケーキでオープニングにコラボで参加した。

                  


                  



脳内クリーニングのパフォーマンス、セルフィーアラーキー風

こういうスペースはニースにはあんまりないので、とてもわくわく。

                   


愛しい日々の連続を♡



2018年6月30日土曜日

夢で会う

わたしは小さな頃からよく夢をみる。多い時は一晩に2、3本、色付き音つき匂いつきで見るので朝かなり疲れていることも多い。



夢に友達や知り合いが出てくることも多くて、誰かが夢にでてきた場合はなんとなくその後朝からその誰かのことをふんわり一日中考えてしまう。



あの人が夢にでてきた。何か会話を交わしていたのは確かだけれど、会話の内容もそれ以外も曖昧でよく覚えていない。ふんわりと嬉しい気分の余韻だけがうっすらと身体に残っている。

そしてその朝マルシェに行く途中でばったりその人に会った。それは夢の続きみたいで、しかもなかなかばったり会う人ではないから、妙にひとりドギマギしてしまった。妙に嬉しくもなった。ビズもその後の会話もいつもの日常とは少し違うトーンで、わたしは変なテンションのまま、またねチャオを言い交わしてわかれた。



あの人と会って会話を交わしたことは確かだけれど、内容も曖昧でよく覚えていない。ふんわりと嬉しい気分の余韻だけがうっすらと身体に残っている。

愛しい日々の連続を♡



2018年6月27日水曜日

海の色、音

ふいにぽっかりと時間が空いた夕方、真っしぐらでいつもの海岸に向かった。

喉が渇いてたまらない時のように全身で海を欲する。ざぶりと水の間に身体をすべりこませる。その瞬間全身の力は抜け、水がつくりだす模様に身体が溶け込んだような感覚になる。太陽の光りが入り込み海中を照らす。


小さな青い魚の大群が対面からやってくる。わたしはゆっくりと魚の中をすすむ。無数の魚たちはどれも青くキラキラ光り、あまりにもその群れが長く続くので、もしかして海の色の一部ははこの魚たちの青色なのかもと、一瞬思いをめぐらせてしまった。



泳ぎながら、ふいにスパイクジョーンズの映画herを思い出す。あの世界感と同じ種類のロマンティックな映像と音がこの海の中にはある。その世界にできるだけ長い間身を浸していたくて、わたしはまた海にむかう。

愛しい日々の連続を♡


2018年6月26日火曜日

ある実験

ある人からもらったオーガニックの食用花。一つ一つ形も香りも、それから味も全然違う。酸っぱかったり、豆の味に似ていたり、ほのかに甘い紅の味がしたり、それはそれは個性的な小さな花たちを使って、ローケーキの試作。ぐっと集中してただただ花たちの形や色を見つめる、それだけに心身を注ぐ。瞑想の時間みたいだ。わたしはどんな風に還元していけるだろう。




愛しい日々の連続を♡



ガンガン踊る二日間

金曜の夜、イザベルとニコに誘われてゲイパーティに。いつも思う。ゲイの子たちの目をぐっと見つめると、人に寄って速さはちがうけれど、必ず瞳が細かく震えている。
とにかく明るいテンションのゲイの子たちに混ざって踊り狂って発散した夜。


家でふてくされてる友達をもっとイライラさせるためにおくる写真

その前の日は前の日でフェットドラミュージック。街中で音楽ガンガン鳴らしてもいい日。スティングやらジェインやら国際的に有名なミュージシャンが来るコンサートの招待状をもらっていたけれど、結局仲間内あんまり誰も流行りのポップスに興味がなく土壇場になって行くのをやめて、友達の集まってる場所に。選択正解。ガンガン踊る。

    




エレクトロに身を浸した2日間。こういう音楽が実は身体によくないのはわかっているけれど、まあみんなで踊るのは楽しいのでよし。それにしても休息が必要。

愛しい日々の連続を♡



雨、六月、カモミール

六月。雨。最近雨模様の多いニース。晴天の青い空が特産品のここでは、雨降りというだけで街の景色も住人たちの心模様もガラリと変わる。日々曇天、小雨続きのパリに住むパリジャンたちはそういうニソワ(ニースに住む人)の特質を笑う。
雨の日が続くとはいえ、日本の梅雨の時期とは比べものにならないくらい、へぼいものである。小雨の日がほとんどで、連日雨が一日中続くことは少ない。午前中どさりと降っても午後には日差しが顔を出すことがほとんど。それでもここに住む人たちの多くは曇天をみると心が沈むのだ。

朝から頭が重い。年がら年中機嫌を損ねている老婆の独り言のように昨夜からじめじめと続く雨のせいだ。知り合いからもらったフレッシュなカモミールをいくつか、沸かしたお湯に入れる。蓋をして数分間煎じたものをカップに注ぐ。

いったいわたしは何を表現できるのだろうか。暗くてじめじめとした悲しいもの?それとも光で包まれた、何か暖かく優しいもの?

愛しい日々の連続を♡




2018年5月18日金曜日

カンヌ映画祭、滑稽さと礼儀、ある視点

「Ayami、明日の夜何してる!」
仲の良い女友達ジュリアが興奮して電話をかけてきた。明日は日曜日、たいてい日曜日の夜というのは静かに家にいるものだ。特になんにも予定はないと答えると、イェーイと電話先で奇声をあげている。たった今日本人監督の新作「万引き家族」のカンヌ映画祭ガラ上映の招待状をもらったので一緒に行こうというのである。カンヌ映画祭では他の映画祭と違って、一般向けにチケットを発売しておらず、招待状かプレスパスなどがない限り観ることはできないらしい。

カンヌ映画祭については、年に一度開催される有名な国際的映画祭であること、スター(この言い回し...)がレッドカーペットを練り歩くことはもちろん知っている。最高勲章パルムドールを受賞した映画は友達と話題にして、興味が湧けば見に行く。けれどもわたしは実のところ今の今までそれ以上とくに大きな思い入れがなかった。隣町だというのに観光でさえ訪れたことがない。それでも、好きな監督の最新映画をしかも監督や出演している人たちと同じ空間で鑑賞できるということはわたしにとって大きな大きな興奮だ。もしも樹木希林が来たら最高!!


「もちろんドレスコードあり。Tenue correcte exigée (正装必須)。男性はSmoking(喫煙服:タキシード)、noeud pap(蝶ネクタイ)必須。エレガントな格好していかなければならないよ。Ayami、何着ていけばいいの!!」ジュリアが電話先で悲痛な声をあげている。
ジュリアの叫びのとおり、何を着て行こうか迷う。大阪にいた頃はその頃の仕事柄もあり、着飾って出かける機会がふんだんにあったのだけれど、それもとうの昔のこと。今は完全にジーンズとスニーカー生活である。ニースでは今まで一回も履く機会がなかった裏ソールが赤いパンプスをぜひ履いていけと、シリルが押してくるw 日本に居たころはこういう助言の役目はうちの祖母だったけれど、今はシリルが担っている 笑
ひとえに正装といってどのレベルのドレスコードなのか。カンヌ映画祭のドレスコードは厳格らしい。夜のガラ上映には取材のための報道陣も正装が必須。男性が蝶ネクタイってことは本気のイブニングドレスを着て行ったほうがいいのか。いやいや、スターでもあるまいしただ映画を鑑賞するだけなのに浮くのやいやだし...

ひとしきり考えた結果、ロングドレスはスターにまかせるとして、デコルテが開いたデザインの白シャツ、アルベールデザインの黒のミニスカート、ラメ入りのタイツ、それにタキシードジャケットを羽織っていくことにした。そしてシリルゴリ押しの黒パンプス。久しぶりのモノトーンコーディネート。くしゃくしゃだよ、とアイロンが下手なわたしの代わりにシリルが白シャツにアイロンをかけてくれる。ミニスカートでも大丈夫か一瞬不安がよぎったが、スターでもミニドレスを着ている人もいるし、というここでスターを引き合いにだす勝手ないい訳でいざ向かう。



現地に付き、招待状を手に列を並ぶ。同じように列に並んでいる周囲の人を観察してみると、男性陣はタキシードを着ている人と普通のスーツの人が半々ぐらい、蝶ネクタイが多い。見るからに若い学生の男の子グループもいて、その子たちは普通の棒ネクタイだ。女性はというと、思っていたよりも案外カジュアルなことに驚く。もちろんイブニングドレスを着ている人たちもいる。けれど、上品なワンピース、星付きレストランで食事というような装いの人たちも多い。実は自分のことは棚に上げて、なんとなく全体的に上品さがかける感じに少しがっかりした。イブニングドレスを着ているにもかかわらず、そのドレスは見るからに化繊、派手な原色ばかりが目立ち、なんだか下品でチープな印象。ワンピースの上に普段着の紺色のトレンチコートを羽織っている人もいる。と思えば、わたしたちと同じ席に座る招待客の女性は、結婚式の花嫁が着るような、もしくは舞踏会にでも出席するかのようなふわふわの裾の長いドレスを来ている。「主役でもないのにやり過ぎだね」的な周りのささやき声が流れていた。とても素敵なドレスだけれど、少し気合いが入り過ぎているかもしれない。
そして何よりもわたしを落ち込ませたのは、下着の線が原色の化繊のドレスに浮いている女性が多いことだった。ドレスアップすることとは自分が目立つより何よりも、まずは「下品ではないこと」というのが必須ではないのか。
先ほどの若い男の子たちのひとりはスエードの茶色のカジュアルシューズを履いていて、セキュリティの人に、「その靴は正装ではありません。本当なら許可できませんよ。今夜だけ特別に通します。」と注意を受けていた。男性の正装は女性と違って基準がわかりやすいだけに厳しいようだ。

ジュリアとあれやこれやと話ながら列で待ち、いよいよ入場という段階になって、入場のためにレッドカーペットを歩かなければいけないことを知る。なぜわたしたちがレッドカーペットを!!ジュリアも知らなかった。わたしたちの座る席はそこを歩いて入場するシートだったのだ。シリルがせっかくアイロンをあて直してくれた白シャツにはまたシワができているし、ジュリアと喋りすぎて口紅だって落ちてるかもしれない。まさかあの上を歩かないといけないなんて!




もうここまで来て、知りませんでした、別の入り口から通してくださいというわけにもいかない。はい行って、みたいな感じでレッドカーペットの脇に通される。
シャツがしわくちゃでも口紅が剥がれ落ちていても、とりあえずわたしなんて誰も見てない!と考えを改め、とりあえず背筋だけは伸ばして少なくともパンプスだけは綺麗に見えるようにだけを念頭において歩いた。ジュリアの腰に手を回し、アジア人とヨーロッパ人のレズビアンカップル風に。

ふと少し前を見ると、わたしたちの前を歩いている招待客の男女グループが「我こそはセレブリテなり」というように(ただのわたしの勝手なアフレコ)、階段の最上階で360度に歩き周り手を振っている。別の招待客の若い女性はイブニングドレスの裾を片手でまくりあげ、これもまた360度にポーズを決めている。そしてカメラのフラッシュ。わたしはそれらを見て、薄っすらと何か得体の知れない感覚を覚えた。レッドカーペットのど真ん中、途方に暮れるような感覚。
...この世界は一体なんだ。

ある視点

映画祭の仕組みは、ガラ上映会に招待されている観客がカーペット上をまず歩き、先に上映会場に入場する。そして最後に監督や出演者がカーペット上を歩き、先に会場内で着席している招待客が彼らが入ってくるのを迎えるというものである。このレッドカーペットは上映映画毎に新しいものに引き直される。すなわち1日3回お色直しされているのだ。

上映会場内のスクリーンには監督や出演者たちがレッドカーペットを歩いて入場してくる様子が映し出されている。かつての24時間テレビの芸能人のマラソンのように(今もまだある?)、そのままカメラとともに会場内に入ってくるのだ。

拍手とともに監督たちが迎えられ、22:30過ぎ、静かに映画が始まった。

「万引き家族」はとてもよい映画だった。終わると一斉に拍手が響き渡った。自然に立ち上がってしまう。会場を見渡すと全員が立ち上がり拍手をしている。スタンディングオベーション。監督や出演者たちは日本のおじぎを繰り返している。会話もなくただただ拍手だけが鳴り響き、それは情熱と感動の拍手というよりも、映画を通してわたしたちが共有した何か家族のような何か暖かいものを作者へ送り、そしてそれを一緒に共有するための拍手のように感じた。とても暖かな空間だった。

下をのぞくと監督たちがいる。

翌日、その夜の一部始終とそしてわたしが感じたことをシリルに話した。「招待客が主役でもないのにレッドカーペットを歩く意味がわからない。何者でもない人たちがレッドカーペットで得意げにしている様子と、周りにずらりと囲む報道陣、そしてわたし自身、違和感とある種の滑稽さを感じた。」というわたしに、シリルは苦笑しながら
「まあ日常で何度もする経験ではないわけだし、そのタピ・ルージュ(赤いカーペット)の上は演劇の舞台みたいなもんなんだから、その人たちみたいにそこで演じるのをめいいっぱい楽しむのもひとつだよね。まあそこを歩くからって実際に何者かになったように勘違いしていしまうのは滑稽だと思うけど。」

そして続けた。「僕は招待客がレッドカーペットを歩く意味はあると思うよ。フランスでは伝統的に礼儀を大事にするところがある。監督や出演者よりも会場に先に入るということは監督たちに花を持たせるということ以外に意味があって、大事なお客様を一番始めに扱うという表現になるんだ。レディファーストみたいにね。だってその招待客がコンペションの中でその映画を初めて見ることになるんだから。その招待客の反応も判定のひとつになるんだよ。途中退席した客がどのくらいいたか、拍手はどんな態度で送られていたか、スタンディングオベーションがあったらそれは何分間、どんな風に送られていたか、すべてが判定要素なんだ。その人たちに敬意を表す意味で招待客もレッドカーペットを歩くんだよ。もちろん盛り上げるショービジネス的な演出要素も多いにあるけどね w まあ出番のなかったあのパンプスをおろす機会になっただけでも君にとってはcoolなことじゃない?」

カップル風に。レッドカーペット上はセルフィ禁止w

そうか、わたしがあの赤いカーペットを招待客として歩くということには多少なりとも意味があったのかもしれないのか。そんなことなら、礼儀をもっと重んじるべきだったのかもしれない...。大きな舞台装置の一部。世界の政治的な意図も見え隠れする作品のラインナップ、役割を担う映画の祭典。大衆とセレブリテ。レッドカーペット上で感じた独特の空気に対する違和感はやはりぬぐいきれないけれど...

とまあ、いろいろ感じたり考えたりすることが多かったカンヌ映画祭初体験。ありがたく招待客として席をいただいたひとりの鑑賞者として、心から映画を楽しむことができたことと、あんな風に監督や出演者本人たちと一体の空間が味わえたことは何よりの経験だった。しかも樹木希林♡!!

翌日、前夜の万引き家族のスタンディングオベーションは約9分間であったことがインターネット上の記事に幾つか載っていた。"Un Certain Regard"(ある視点部門)に選出されているベルギーの「Girl」という作品は、涙を浮かべながらの観客によるスタンディングオベーションが約15分間続いたらしい。

発表が待ち遠しい。ジーンズとコンバースの日常に戻りながら。

愛しい日々の連続を♡