2018年8月21日火曜日

手から生み出すものたち

この間SNSで日本人のモデルの女の人が、「断捨離したよー、いつもお洋服はチャリティー行きだよー」と自分のスッキリとしたクローゼットの写真を投稿していた。ふと、きっとその膨大のお洋服は御付きの人か雑誌社の人かなんかが引き取りにきたりして、自分の手でチャリティー先に持っていったりダンボールに詰めて住所書いて送ったりなんてしないんだろうなーという考えが浮かんだ。


フランスに来てたくさんの人と知り合い、たくさんの友達ができた。仲のいい友達はみんな例えばモンサントには反対だし、ほとんどが地産地消や無農薬野菜を消費することに興味を持っている。

でもその中でも何人かの友達たちは「消費すること」だけでなく、実際にその動きに自らの手で、体で、加っている。材料を自ら調達しに行き、自分の手でものを作り出し、自分の手でそれを売りに出す。そういう友達たちは不思議なことに、”自分たちがしていること”と”考えていること”の間に矛盾が少ない。
「材料を発注して工場で誰かに作ってもらって、そしてそれを誰かに売ってもらう」ということが決して悪いというわけではない。ただ、「自らの体を使う」というところから離れれば離れるほど、いろんな矛盾が増えてくるように思う。食べるものには気をつけるけど冷房はがんがん消費していたり、電気自転車には反対だと言いながらどんどん魚を消費する。自分がしていることと、海にクラゲが増え続ける原因は全く繋がっていない。

コンピュータにスマートフォンにと、もちろん言い出したらキリがないし、完璧なんて到底無理だ。ただ、何かを守るためには自分の慣れ親しんだ快適さを多少でも犠牲にする必要があるのかもしれない。このふたつは必ずしも比例しない。


自ら体を使って社会に参加している友達たちは環境問題がどうのとかチャリティーがどうのとか、とくに大げさなことを言わない。きっと自分たちがしている小さなことがすべてに繋がっていることを体得しているからなんだろう。彼らは時々こっそりと「Bobo」や「ヒップスター」を笑い飛ばしている。カッコだけ一丁前で、中身がない、お金でできることだけ参加して、声高にエコロを叫ぶ、彼らはそれで満足なんだからまあいいんだけどね、と。

これはわたし自身への戒めであり、注意喚起だ。時々、自分たちの体を通して社会に加わり現実を生きている友達たちに、懺悔みたいに自分の矛盾を聞いてもらってはわたしは自分のゆるんだ靴ひもをぎゅっと締め直す。都会に生きるということは、気づかない間にもすくすく育ってしまう「Bobo精神」との戦いだ。


無知であること、またはそのことさえ気づかずに色々知っているつもりで声高に主張して快適な生活を送ることは、なんて楽なのだろうか。可愛い、快適、環境に優しい、それらは必ず誰かが後ろで体を使ってくれている。もしくは何かがもぎ取られている。「買う」ことだけではやっぱり社会はこのままだ。



そんなことを考えながら、今日も海に身を浸す。手を横に広げて指先で水をかいてみる。太腿からふくらはぎ、それから足の指先を順に動かして海の中を泳ぎすすむ。身体の感覚を忘れないように。


愛しい日々の連続を♡

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