2016年2月24日水曜日

アヒムサって

ヨガには「アヒムサ(アヒンサー)」=非暴力という考え方がある。生き物を殺したり肉体的な暴力をふるわないというだけでなく、言葉や態度、暴力的な考えや思考など、言葉も思いも行為もあらゆる暴力全体のことを指す。そしてそれは生きとし生けるものや他人だけでなく、環境や、自分自身にも深い愛情をもって接することを意味する。わたしは特定の宗教に属すつもりはないけれど、この考えにはできるだけ近づいていきたいと思っている。ただ、アヒムサを純粋に実践しようとすると本当に大変だ。わたしはまだ自分の弱さが原因で、愛している人にこの上なくひどい言葉を向けたりすることもある。ゴキブリが出てきた時にアヒムサを考えていられるかといのも正直まだ全然自信がない。肉体的にうける暴力は目に見えるだけ描写ができるけれど、それこそ自分自身に対する暴力(不摂生のような肉体的なことから、自分に嘘をついたりダメな人と一緒にいたりするような類の精神的なことも)なんて、それはもう、自分が自分に誤魔化されるので大変だ。


わたしは昔、ヨガを教えている人から小さな意地悪をうけたことがある。その小さな意地悪というのは詳しくは書かないが、本人同士しかわからないような小さな、でも確実にトゲがある、小中学生の女子同士にありそうな類のもの。その人はとても魅力に溢れた人で、その人の魅力と表現力にわたしはとても憧れていたし、何よりもその人は自分はアヒムサを実践しているから菜食主義なんだと公の場で何度か言っていたのを知っていたから、その意地悪をうけた時はけっこうなショックだった。ヨガを誰かに教授する立場の人が、そしてアヒムサを実践していると言っている人が、なぜ。わたしは何ヶ月にもわたって悶々としてしまった。結局物理的にその人とは疎遠になり、連絡は途切れた。もちろん、その意地悪の原因は直接聞いてはいないから実際のところわからないが、わたしにその人をイライラさせてしまう何かがあったのだ。


で、それから半年以上経ってようやく気づいた。そういう意地悪のトゲはわたしの中にもある。ここでいう例えは全然実際にあったこととは違うけれど、小さなトゲというのをほんの身近なささいなことでいえば、例えば、人と話していて、ああ、この人今こういうこと言って自然に褒めてほしいんだろうなと分かったとしてもなんとなく言ってあげない、とか、何かで人と目が合ってああこの人今声をかけてほしそうだな、ということがなんとなく分かってもちょっとだけ忙しさを態度で見せて目をそらせてスルーする、とか、そういうミクロ級の小さな意地悪にも何かが顔を出しているのではないか。人にわたしこんな意地悪なことしたよと言えるほどのものではなく、もっと人には言えないような自然にふるまっているかのように見せられる小さな鋭いトゲの部分に。それは確かにまだ暴力ではない。だけどそれは確かにエゴによるトゲで、ネガティブな何かを生み出すもの。


そうか、あの人は同時にわたしだった。わたしにもあの人と同じように、他の誰かに同じような意地悪をしてしまう可能性も大きくあったということだ。それなら、わたしはわたしのそのトゲと向き合えばいい。それに気づいたら、不思議ともう件(くだん)の人とのことから受けたショックはなくなった。このことは、アヒムサっていったい何だろうと改めて考える機会になった。


そして、限りなくこのアヒムサの考え方に沿って生きている人を身近にひとり知っている。その人は肉体的な暴力なんて論外、言葉や態度の暴力も決してふるわない、かといって何か問題が起こった時に逃げるのではなく冷静に対処したり相手がいる場合は相手に必要な意見を真正面から伝えたりすることもする。自分によくない部分があればそれを改善しようとする、自分の能力を自分と人と社会のために最大まで伸ばそうとする、もちろん人に意地悪もしない、つねに人を助けようという気持ちを持っているし、人に愛情を見せることをおしまない。くそー、聖人君子かよ?なんて毒づきそうになるけれど、別にそういうわけでもない。山にこもって自分だけ聖人になるよりも、何世代か先の子孫のために今の社会に残ろうとする。時々お酒をたしなんでふざけたことをするし日々のちょっとした楽しみにお金を払ったりする。
でも...この人は特にヨガを日常の習慣にはしていないのでヨガのポーズをしても全然かっこよくできない。だけど、件(くだん)のヨガの先生よりも、ヨガの考え方に沿っている人だと思うのだ。もっとも、この人は何かひとつの精神哲学や宗教に偏らずに、できるだけ世界中にある知識や知恵に興味を持って学んで、それからいいものを取り入れて組み合わせたいと考えているので、ヨガに通づるところはあってもそれに沿って生きているとは自分では言わないだろう。


そしてこの人がわたしに言った。他の人に過剰な期待をしない方がいいんだよ。もちろん本当は、ヨガや、何か精神世界と強い繋がりを持つことを人に教える立場の人は、人間的に未熟であってはならないと思うけれど、残念ながら現代の社会はそういう人たちばっかりではないんだ。その人のお金を稼ぐ手段になっているのだったら、その人の得意分野や素晴らしい部分だけにお金を払って教えてもらうという姿勢で割り切るしかないんだよ。


友達に、恋人に、夫に、妻に、親に、子供に、他人に、そして自分に対してもわたしたちはとても簡単に期待をしてしまう。少しだけの期待ならいいけれど、過剰に期待をして、相手の弱いところを見て落胆する。期待に沿ってくれないとそれは怒りの種に姿を変える。条件つきでしか相手しか見れずに、ありがままのその相手を受け入れることができない。怒りの反応はそのまま自分の弱さの反映であることが多い。そしてそれはそのまま自分自身にもいろんな条件をつけて(例えば痩せてなくてはいけない、完璧じゃないといけない、協調性がないといけない、etc)そういうものをクリアしなければ自分を受け入れられない状態だってことだ。そして、そっか、これもアヒムサに繋がるんだな、と周り回って思い当たった。わたしはまだまだ矛盾をたくさん抱えている。完璧なんて目指さなくてもいいか。少しずつ近づいていければいい。


ああ、まだまだだ。トホホ〜♡
それでも、愛しい日々の連続を♡

引越しも完璧に片付いて、家の中で日焼けしそうなくらいの日光と(夏本当にヤバそうw)、快適さと居心地のよさに家遊びが楽しい今日この頃。
新しい家で記念に撮ったら、占いの館へようこそ的な写真になってしまった一枚↓




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