2017年4月30日日曜日

神経症的会話の味わい

こんな風に、完璧な構図と音楽とユーモアだけで世界を成り立たせられたら。
なんて、久しぶりにジャック・タチの映画を見ながらぼーっとそんなことを考えた。新月の雨の夜。

仲のよい女友達からの電話が鳴る。
「ねえ、もし時間があったら今からちょっとだけ会わない?」

彼女とわたしは、お互い時間を見つけては喋り続けている。もちろん女子特有のたわいもない話や読んだ本やら見た映画の話も盛り込むのだけれど、それ以外に語り合うほとんどの会話は、詳細な心理描写、それは時にはウッディ・アレンもきっと辟易するんじゃないかと思うくらいの執拗さと細かさで成り立っている。


遅めの朝のカフェを飲みながら、昼食をとりながら、公園を歩きながら、道路を横切りながら、本屋の棚の間を縫い歩きながら、市場で野菜をよりながら、ブティックのオープニングパーティに向かう途中、レイトショーの帰り、カフェのテラスで、芝生の真ん中で、美容室の待合室で、彼女のアパルトマンの生成り色のソファで、キッチンに立ちながら、バーのカウンターに腰かけながら。

生姜入りのそれは美味しいラビオリを頬張りながら、酸味が強過ぎるカフェにふたりして文句を言いながら、電話で莓を齧りながら、2杯目のボーヌの赤ワインを飲み干しながら、映画のあとのほろ苦いタブレットショコラを齧りながら。
 
わたしたちの話はつきない。

ニースにはめずらしい色合い

今まで夫としか話合えなかった、物事の細かいひだについてや、長年折りたたんだまま開いてみようとしていなかった様々な自分の感情や気持ちの移り変わり、人への接し方、自分のコンプレックスやそれに対する考え方、家族との関係、他人の持つ癖に対応するその仕方、単語の本当の意味、それぞれ自分のかかりつけのPsy(心理カウンセラー)の見解の仕方、それらひとつひとつを誰かと話合えるということは、とても興味深い。

いろいろな状況や様々な感情のひだをただただすべてひとまとめにして、「本当はみんな基本いい人だから」とか、「何はともあれ他人に感謝しましょう」とか、そういうことがもちろん助けになるような時期もあるのだろうけれど、ただそれだけですべての問題を乗り切ってしまおうとすることは、残念ながら根本的な解決策にはならない。日めくりカレンダーに書かれた格言だけでは掬いきれない粒の細かな事柄が日々たくさんある。


フランスへ来てからというもの、自分の口から発せられ、自分の耳に入ってくる不協和音入りの自分のフランス語のメロディーに、わたしは日々イライラさせられている。時々自分の発しているその音がどうしてもフランス語に聞こえず、耳を塞ぎたくなる。このこともわたしの部分的な神経質さに拍車をかけているのかもしれない。自分が発する音が自分をイライラさせるなんて、笑いたくなるほど堪え難い。それこそ、完璧な雑音で彩られるタチの世界に入り込みたくなる。そのフラストレーションを、ほとんどアクセントがないとても聞き取りやすい彼女のフランス語を耳にしながらだと、自分の耳をごまかして少しは中和させながら会話ができる。これは彼女といてとても楽な気分になる理由のひとつなのかもしれない。

猫を助けたくて仕事をほっぽり出し

理想と現実のズレ。外と内の対比。完璧に見える塀の向こう。混沌した内側。衝突を仰ぐ世界。完璧な構図への憧れを手放した瞬間に訪れる、滑稽さに宿る優しい光。
自分の生まれ育った場所ではない国に根を下ろし始めて初めて気づくことの数々。人との関係の中で存在するコード(規範)の違い。 育ってきた環境も言葉も何もかも異なる人たち。そして違いを認めてお互いの今を慈しむ感覚。

30半ばも過ぎて、また「友人とは」なんて考えている。
恋愛とはまた違う、それでいて同じように果てしなくかけがえのない領域に属する人々、その関係。

友人たちが巻き煙草のために使うのは祖国の古いお札


鳥に憧れているベッドシーツがバタバタとはためく風の強い、それでいてどこまでも青い空の朝、かもめの輪郭をあやふやにして混ぜ込んだ灰色の空の憂鬱な午後、金色の光がキラキラ揺れる海辺の夕方、通りに人が溢れる興奮した音だらけの夜。冬と春、春と夏の間でいったりきたり彷徨うこの時期、ぐるぐるとそのすべてを巻き込んで飛ばしてしまおうとする風が時折り吹く。

相変わらずわたしたちの話はつきない。

愛しい日々の連続を♡



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