2014年6月9日月曜日

潜んだ欲望と、変な顔

わたしは、”○○臭い”というのが苦手である。

まず、この”○○臭い”とは何かというと、貧乏臭い、田舎臭い、金持ち臭い、女臭い、男臭いetc ...

貧乏なのはいいけど貧乏臭いのはいやだ、田舎者なのはいいけど田舎臭いのはいやだ、金持ちなのはいいけど金持ち臭いのはいやだ、女とか男なのはいいけど女臭いとか男臭いのはいやだ。あ、お洒落臭いってのもいやだなあ。
とにかく”~臭い”がつくとなんだか、その前につく名詞の存在を必死に隠そうとした結果、却ってそのことを輪にかけて露呈していることを当事者が気づいていない状態  というような、なんかうさんくさい感じをうける。(例外:”ケチ”については、ケチ臭いのもケチも両方いやだ。)

まあとにかく、なぜうさんくさい感じをうけるのかというと、本人の気づいていない欲望が露呈され、しかもそれを本人が気づいていないというところに何か”ハダカの王様”的な一種の愚かさを感じるからではないかなと思う。



わたしのこの”○○臭い”嫌いは、時田秀美くんのお祖父さんの影響である。時田秀美くんとは誰かというと、わたしの大好きな山田詠美の小説『僕は勉ができない』の中に出てくる主人公、17歳の男子高校生のこと。

この本の中で、時田秀美くんのお祖父さんは、こう言い放っている。
”貧乏という試練は甘んじて受けるが、貧乏臭いのはおことわりなのだ。” 『僕は勉教ができない』

この本を初めて読んだ高校生の頃のわたしは、このお祖父さんの台詞を読んで衝撃を受けた。
以来、この”○○臭い”という表現であらわされる事柄や人を注意して観察するようになった。



そして数ヶ月前からハマっている内田樹先生の著書の中の、「知性」についての文章で、知性にも”知性臭い”があり得ることを知った。

”私たちは知性を計量するとき、その人の「真剣さ」や「情報量」や「現場経験」などというものを勘定には入れない。そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準にして判断する。” 『ためらいの倫理学』

知識人と呼ばれる人や、目上(とよばざるを得ない)の人が語る物事の見解には、時々、「う~ん、結局何を言ってるのかわからない。わたしがバカだからかもしれないけど...、でももっとわかるように噛み砕いて説明してくれないだろうか...」というものが多々あるし、それに言葉を羅列しているけれど、彼らが語る見解の中では、その言葉の本当の意味、本当の定義とは正反対、あるいは全く別のものとして使われていたりすることがある。
「真剣さ」や「情報量」や「現場経験」などだけで語られることや、内輪の中でしか通じない言い回しでのみ語ること、自分自身の内を省みていない物の見方や見解は、とても...知性臭い気がする。


知性に限らず、何か物事の本質や真実ようなものを探りそれに近づこうとするとき、それに対する熱意やら情報やら経験値が重要ではなくて、その人がその物事の本質だと思っていること、真実だと思っていることをどれだけ疑っているか。その物事自体に自分が投影している、あるいは紛れ込ませている欲望にどこまで気づけるか、これらこそが必要なのではないかと思う。

だいたいの人は、この自分の”善意に隠れた欲望の存在”を認識していない、もしくは知らないふりをする。
わたしが考えるこの欲望というものは、「物事や人(自分も含む)を自分の意思でコントロールしようとする」もので、わたしは、この欲望の存在に自身が気づくか気づかないかで、その物事は大きく変化するのではないかと思っている。
どこまで自分の善意を疑えるか。

対人関係や社会とか世界の物事の中でも、それぞれがそこに気づけていないから、 ストレスとか暴力とか、人や物事との摩擦が生まれるのではないか、と思っている。
この欲望は、親の子供への愛情の中に、恋人への愛情の中に、あるいは友人に対して、部下に対して、至るところに隠されている。 始末が悪いのは「善意に隠された」という点だ。



そして何を隠そうわたしはこのことに約30年間ほど気づかずに生きてきたのだ。物事や他人と関わりを持ついたるところに、この欲望が潜んでいたことに気づかずに行動していたのだ。そしてあるとき、この欲望の存在に気づいてから、その欲望を認識し、そこから自分を解放する、という作業を何回も何回も繰り返した。そしてその作業を重ねるにつれ、驚くほど心身が安定するようになったのだ。周りの物事も変化した。

内田樹先生は同じ著書の中で、”自分の知性を雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、わたしは好きだ”と言っている。これを読んでから、わたしは内田樹先生を、時田秀美くんの祖父に続いて、わたしのお祖父さんにしようと勝手に決めた。(お祖父さんと呼ぶには若いしダンディーすぎるけれど♡)



そして何十年ぶりに思い出して、久しぶりに『僕は勉強ができない』を読み返してみた。
もうね、最高。
やっぱりこの本には、お祖父さん以外にも痛快な名言が随所にちりばめられている。時田秀美くん17歳、素敵な男子だ。

”ぼくは思うのだ。どんなに成績が良くて、りっぱな事を言えるような人物でも、その人が変な顔で女にもてなかったらずい分と虚しいような気がする。”

"脇山、お前はすごい人間だ。認めるよ。その成績の良さは尋常ではない"
(脇山というのは秀美くんを敵対視しているいけすかないクラス委員長)
"でも、おまえ、女にもてないだろ"

(学年に2,3人はいるとびきり可愛い女の子たちについて)
”彼女たちは、たいてい、清潔感にあふれいて、愛らしい顔をしている。自分の魅力に気付いてないわ、というようなうぶな表情を浮かべながら、磨きたてたうなじを何かの拍子に、ちらりと見せたりする。手を抜いてないなあ。ぼくは、彼女たちを見るたびに、そう心の中で呟く。”

”自分のこと、可愛いって思ってるでしょ。本当はきみ、色々なことを知ってる。人が自分をどう見てるかってことに関してね。”

”ぼくは、人に好かれようと姑息に努力をする人を見ると困っちゃうたちなんだ。香水よりも石鹸の香りが好きな男の方が多いから、そういう香りを漂わせようと目論む女より、自分の好みの強い香水を付けている女の人の方が好きなんだ。”

”他人からの視線、そして、自分自身からの視線。それを受けると、人は必ず媚という毒を結晶させる。毒をいかにして抜いて行くか。”

こんな息子に育てた彼のお母さんも実に爽快でかっこいい人だ。

ちなみに秀美くんの言っている変な顔ってのは、顔の造形を言ってるわけではない。内面とかその人の持っているいい味が全く出ていない、意味のないことに固執してできあがった顔のこと。
自分の真の欲望に気づいていない、つまりは”○○臭い”ってのが滲み出ている顔のことじゃないかしら。

『僕は勉強ができない』いつ読んでもおすすめ。



とにかく、ひとりひとりが自分の欲望に気づいて、それを認めて解放し、それを浄化させていく。つまりは自分自身を心の底から愛することが大切だと思う。
大げさにきこえるかもしれないけれど、人が持つストレスや、世界にはびこっている暴力、潜んでいるその種を少しでも浄化させるのは、そこからだと思う。

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