2015年9月9日水曜日

美しさに宿る力

フランスには必ず公共の場所に芸術作品が置かれている。
これは国の取り組みで、芸術家たちを支援するための政策のひとつなのだそうだ。公共の空間に設置される芸術作品のことを、パブリックアートと呼ばれている。「公共的な芸術」。最近気になることがあるので、ちょっとパブリックアートについて調べてみた。

wikipediaには、
”パブリックアートとは、設置される空間の環境的特性や周辺との関係性において、空間の魅力を高める役割をになう、公共空間を構成する一つの要素と位置づけされる。”と説明されている。

ニース市外の中心に位置するPlace Masséna(マセナ広場)
コートダジュールの空の色と、ニース独特のイタリア建築の建物の色を
開けた空間の中で体感できる場所。

wikipediaの説明をどこまで正しい定義として扱うかということももちろん考えなければいけないけれど、”設置される空間の環境的特性や周辺との関係性において、空間の魅力を高める役割をになう”というところは市民にとって重要なことではないだろうか。

わたしはここフランスで、公共空間に設置されている芸術作品に対して個人的に疑問を持っている。はて、この芸術作品たちはこの自然景観と調和しているのだろうか?「空間の魅力を高める役割」からかけ離れているのではないか?と疑問を感じるのだ。

そのマセナ広場になんか変なものが。
街灯かと思ってよく見ると、

彫刻家ジャウマ・プレンサ(Jaume Plensa)によるパブリックアート
全部で七体

20世紀後半から、芸術は美しさを最大の価値とはしていないのは明らかだ。現代アートは、美しさではなくある種のショック、刺激を鑑賞者に与えるものが多い。あるいは作品を前にして、「これは一体何なのか?」と疑問を鑑賞者に彷彿させるもの。大まかな定義では、現代社会の情勢や問題を反映し、美術史や社会への批評性を感じさせる作品のことを現代アートと呼ぶらしい。現代アートを全面的に否定するつもりはないが、パブリックアートにおいて最近いくつもの問いが頭をめぐるのだ。

長い歴史の中で芸術とは、人間の創造を超えた美しさを表現する、そしてそこに宿る精霊のようなものを伝え残すものではなかっただろうか?
なぜ”美しさ”から距離を置く必要があるのだろうか?たとえ”美しさ”に価値は置かずとも、反対の”醜さ”を氾濫させてるのではないだろうか?

夜になるともっと酷い。
街灯の明かりを無視して、ディズニーランド化

美しさや醜さはもちろん個人的な感情、主観に因ってくるので、普遍的な定義はないのだし、両者はそれぞれ個人的主観、社会の構造などで変動することもある...

なんてこむずかしいことは美学やら芸術学やらの専門家の何百枚の論文にまかせるとして、フランスで目にするパブリックアートに本当にいつもがっかりさせられているので、ここで鬱憤をはらしたいだけのことw

フランスでは歴史的なモニュメントや広場、場所で、多く、”醜い”現代アートが設置されているのを目にする。”醜い”というのがわたし個人の感情からくるものなのであれば、言い直す。その場所に居る人に何かしらのショックを与えるもの、設置されている周りの環境から浮き出ている存在のもの。
これらを目にする度、これはもともとの自然景観の美しさを破壊しているのでは?と感じるのだ。もともとそこに在るだけで美しい、例えば何百年も存在する歴史的な建物や広場の前に、ショックを与える奇異な現代アートは必要なんだろうか?それを設置させることで、人々が美に対する考えを知覚し直すための挑戦?そんなこと、少なくともわたしは望んでいないし、もしそうならそんな挑戦個人的に勝手にやってくれと思うのだ。こんな作品、この場所に無い方が景観は美しいと感じるのはわたしだけだろうか? わたしたちの趣味嗜好は十人十色、万別なので、特殊なものや奇異なものは個人の所有空間に設置する、もしくは個人が携帯するだけではだめなのだろうか?

わたしが今のところ見た中で一番ひどいと思うパブリックアートは、マルセイユにある。
道路のロータリーに突如出現する、セザール(Cesar)による巨大な親指

とはいえ、わたしも学生の頃、訳もわからず現代アートかっくいい!なんて思っていたし、あの頃なら、遊びがあっていいんじゃない?なんて公共の場所に出現する変なものもアートだわなんて思っていたに違いない。
年をとっただけなのかもしれない。
それでも最近、物質で溢れる現代社会で、昔からあるさまざまな価値観は徐々に、正反対の意味することを示していっているのではないかと感じるのだ。美しさの価値もそうだと思う。よく昔から、人は内面の美しさが外見に現れると言うけれど、わたしは、美しさには何かスピリチュアルな力があるのではないかと感じている。その美しさの代わりに反対の醜さへ価値を置くことで、そこに宿る力が減少する。人々を散漫させるには、美しさから遠ざけ、醜さや汚さの中に放り込んだら、都合がよさそうだ。偉大なパブリックアートの前を通る時、わたしの頭にはいつも「裸の王様」の寓話がよぎる。

美しさに宿る力を取り戻したいなと感じている。

変な写真ばっかり載せて好きな写真を載せられなかったので、フラストレーションがたまるw ので、最後に全然関係ないけれど、家から5歩歩いたところにある内装が超好みのイタリアンレストランの写真と、最近ハマりまくっているビオスーパーのラビオリ。リコッタとほうれん草だとか、セップとチーズだとか最高の組み合わせがたくさんあり。手抜きが癖になってしまう!




美しさは特別なことをしなくても、多分いつもすぐ目の前に広がっている。
愛しい日々の連続を♡




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