2016年4月7日木曜日

SNSで消費するもの

とても面白い人がいる。彼は家を持たず生活に必要なものは車に積み込み、様々な土地を移動しながら生活している。不必要なものを持たない代わりに、膨大な知識と知恵を蓄えている。政治のこと、経済のこと、文学、言語の意味、宗教、芸術、宇宙のこと、様々な国の歴史、ヨガのこと、ドパリュドゥーについて、etc, etc, 話せば話すほど湧き出る泉かと思うほどいろんなことが出てくる。インターネットのまとめ記事やSNSで流れている情報、人から又聞きしただけの情報で知識を構成するのとはまったく次元が違う。読んで調べて疑ってまた調べて疑って時々実践してって、おそらくそれの数珠つなぎで蓄積されているのだろう、大きな木のような知識なのだ。そしてそれをユーモアたっぷりに話すのでまったく飽きない。フランス語なので全部は到底把握しきれていないがそれでも飽きない。そしてその人はある武術を身につけているので、体のこともよく知っている。人の気の流れを整えることもできる。


ところで、SNSで鬱になる人が増えているそうだ。調べてみると様々な研究機関が数年前から研究結果を発表しているが、精神衛生上問題のある人がSNSによって鬱になるというよりは、SNSの持つ特質が人を鬱にならせやすいそうで、誰もに大きな危険性があるということ。研究によって、SNSの利用によって人がもっとも感じる感情は「妬み」であるということが分かったらしい。

長時間使えば使う程、絶望感を感じ、強い孤独感に苛まれ、判断力が低下し、怠け者になり、妬みの感情が爆発し、人生に不満を感じ、結果的に鬱症状が出やすくなりるのだという。ただ閲覧するだけの人よりも頻繁に投稿する人のほうが鬱になる傾向がでやすいらしい。カナダのある心理学者の論文によると、「毎日SNSを2時間以上使っている若者は、心理的苦痛を感じたり自殺したいと思う割合が高い」との調査結果が得られたらしい。ただし、「SNSと精神衛生の関係性は非常に複雑で、『SNSを使っているから精神衛生に問題が起こる』と単純に説明することはできない」とも言っている。


わたしは気楽な性格なのか、例えばFacebookを利用して見て特に嫉妬を感じたことはない。もしかしたら特に重きを置いて頻繁に利用していないからかもしれない。わたしはこのブログの更新を投稿しているのに使うか、あとはたま〜に個人的な実験で写真を載せたりするぐらいで、8年前利用し初めた頃に比べると使い方も全く違うし、あまり興味がなくなっている。だからと行って友達や知り合いの投稿にへ〜、そんなことしてるんだ!なんて興味を持つこともあるし、日本から離れている分、自分の大好きな友達の投稿で近況を知れて嬉しくなることもある。
ただ、わたしは構図や色構成が素敵な写真や独特の雰囲気がある写真を見ることが昔から好きなので、そういう意味でFacebookに投稿されている記事や写真が趣味ではないものが多い。
で、なんとなくinstagramで投稿されている写真を閲覧するようになった。もちろん好きな写真ばかりではないけれど、自分の好きな国や行ったことのない綺麗な場所の写真たちを見るとうっとりする。ベジタリアンなので世界中の国から投稿されている菜食料理のレシピを知るのが楽しくて、自分も写真を撮ることも料理を作るのも好きなので、自由気ままに投稿できるという気軽さであまり深く考えずに楽しんでいた。


ただ...実を言うと妬みや鬱は知らなかったとしても、SNSの他の危険性は随分と前から知っていた。(例えば小さい子供の写真はかなり危険なので顔写真は載せない方がいい、とか、本当に伝えたいことはSNSでは伝えない方がいい、とか。)これらの危険性に関してはいろいろな情報が絡みあっていて紐解いてきちんと伝えないといけないので、今ここでは書かないが、それらを知りながらも適当に利用していた。いい情報をみんなに拡散したいという気持ちもあったが、本当に伝えないといけないことはSNSでは伝わらないことを本当はどこかで知っていた。SNSに投稿した写真は上から下へスクロールされ、どんどん消費される。花の美しさも精神世界も体の仕組みも人との繋がりもすべてビジネスの広告になり消費されていく。自分の気持ちを煩(わずら)わす人の投稿にはフィルターをかけてしまえばいい。簡単に排除ができる。消費されるのはデータだけではないようだ。

少し古いものではあるが面白い記事を見つけた。(http://www.seijo.ac.jp/pdf/faeco/kenkyu/177178/177178abe.pdf 想像する以上に難しい言葉は使われていないし、分かりやすい文章なのでもし時間があれば読んでみたら面白いと思う。)


”ユーザーである消費者の「自己実現」の欲求は,見方を変えれば「ナルシシズム」への欲求とも言うことができる。SNSに限らず,インターネット環境が実現した表現の場は,ユーザーに対して,「自己実現」の欲求の充足を与えるとともに,「ナルシシズム」の欲求の充足も与える。”
そしてわたし的に衝撃的だったのが、中盤あたり(130-132P)に出てくる文章、
”ユーザーは,開かれたコミュニケーションをするという快楽を消費しようとすると同時に,(互いに)広く知られているという「プチ有名人」とでも言うべき存在になろうとする。”という一節。
”プチ有名人”!!きゃあ!言い得て妙!意地悪でそして的を得た、なんて貧乏臭い表現なんだろう!!とおののいてしまった。この言葉が持つ独特の匂いに数秒間思考が停止してしまい(笑)、そして我に返り自分を大いに省みて、そして思う。「プチ有名人」は...ちょっと、いやだ。
マズローも彼の理論でいう”低いレベルの尊敬欲求”(他者からの尊敬、地位への渇望、名声、利権、注目などを得ることによって満たす欲求)にとどまり続けることは危険だと言っている。SNSのセルフィーはそのもっともの例だ。このブログだってそのひとつにすぎない。わたしの大きなエゴだ。


で、ハタと気がついた。SNSで鬱になる人が増えているということは、知らないうちにわたしもそこに加担しているのか!ということ。わたしのSNSのアカウントは特にフォロワーが多いわけではないしわたしが投稿した写真で妬みを買うということも特にないかもしれないけれど、それでもそこの一片になり得るかもしれない。

だからと言って特にアカウントを削除したり利用を完全に止めたりということもしないだろう。うっとり妄想時間は昔から大切にしているので、素敵な写真を見たくなれば見るし、友達の投稿の閲覧もするし、時々投稿だってするだろう。でも知らないうちに何かに加担して、わたしの大切にしている部分を持っていかれないようにしようと思う。
ああ...いつだってエゴは取り付くことを探しているんだなと思う。


くだんのその面白い人といろんな話をする。「いろいろな人が僕に勝手なイメージをつけて何かを期待してくることは本当によくある。僕は宗教家でもないし悟りをひらいているわけでもない。謙虚でもないし、普通の人間なんだよ。ただの変わった年寄りだ。」と笑いながら言う。時々意地悪で辛辣なコメントもたくさんする。「残念だけど偽のアヒムサも受け入れなければならないんだよ」と経験からアドバイスをくれる。そして...その彼の奔放さに振り回されてきた家族の苦しみもわたしは知っている。彼ももちろん聖人君主ではない。

ああ、まだまだ全然足りてない。わたしには知恵も知識も経験もこの人の足元にも及ばない。本を読む。体で感じる。鬱の人を増やす加担をしている場合じゃない。それにもし仮に同じように妬むとするのであればこの知識の深さに嫉妬したい。


その面白い人はわたしにいろんなヒントをくれた。改めて、わたしが向く方向を再認識した。機能的な方向に進めば進むほど、愛おしくなる種類のものたちの方へ。

わたしは文章を書くことで自分をひとつにまとめている。まだまだ内側の作業で、このブログはわたしのれっきとした欲求の塊だ。それを手放せるようになるまではもう少し続けてみようと思う。
夫がわたしに言う。「ちょっとずつ要らないものを外していけばいい。その段階に来たんだと思うよ。で、したいことは続ければいい。」


というわけで長くなったけれど、決してSNSを利用している人自体を悪く言いたいのではない。自分自身を省みて、それから社会の在り方自体に疑いを持っている。
そして...なんといっても、先週あたりからSNSの画面にはありとあらゆる桜が咲き乱れていて、ああ、断然春は日本の方が情緒があるな、なんて、そう、嫉妬しているのだw

愛しい日々の連続を♡



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