2016年4月21日木曜日

愛すべき体の従順な奴隷、無知の罪

ジョギングをして、ヨガをひと通り終えた朝、何を食べようかでわたしの頭の中はいっぱいになる。せっかく体も心もすっきりしたというのに、これじゃあ生理的欲求の虜だ。まあそれも悪くはない。愛すべき体の従順な奴隷であるわたしは、さっと台所に立つ。
朝から台所に立つなんて。物心ついてから朝食を食べるのが苦手でずっと朝食は食べない主義だったわたしには考えられなかった。とはいっても、朝、食べたいのは果物だ。特に調理の必要はない。まだ朝からパンだのクッキーだのをがっつけるほどには朝食は食べられない。(ましてやご飯に味噌汁なんて!)


カシスを混ぜ込んだ豆乳ヨーグルトに、思いついた果物をささっと洗って、アーモンドを何粒か、胡桃もひとつかみ。へーゼルナッツも何粒か。ヘーゼルナッツはフランス語で”noisette ノワゼット”という。この単語の語感がなぜか好きで、ノワゼットをついつい買ってしまう。亜麻の種とひまわりの種もひとつかみ、かぼちゃの種の緑色も入れよう。思いついたものをとにかく入れる。今日は特別にココナッツクリームで作ったVegan生クリームを苺に添えてみる。ココナッツ、ビーポレン、カカオニブ、ざくろ、ドライクランベリー、シナモンに、クミンも少々、バラバラパラパラ。最近はボウルに盛らずに、そのままお皿に描くように置くのが気に入っている。最近のテーマは、なんとなくSexyなひと皿になるように(笑)

で、ひと口目、スプーンで端からぐーっと全部を掬いあげるのがなんとも楽しい。あとは思いのまま混ぜたり潰したりして、食べる。
市場には苺、ラズベリー、ブルーベリー、黒すぐりたちが体中キラキラの粒々の目だらけにしてらんらんと並んでいる。春だ。

<Veganココナッツ生クリームの作り方>
1. 漂白剤・乳化剤・酸化防止剤などの添加物が使われていないココナッツミルク缶を用意する。できるだけ脂肪分の高いものがいい。

2. 缶のまま冷蔵庫に数時間入れておく。(ココナッツミルクを液体と脂肪分に分離させるため。)

3. 凝固しているクリーム部分(脂肪分)を取り出す。

4. メープルシロップを自分の好きな甘さになるまで調整しながら入れる。バニラエッセンスも1、2滴。

5. 泡立て器で混ぜる。

Voilà 出来上がり!舐めだしたら美味しくて止まらないので要注意!


4/15、熊本大震災の渦中、参議院で”国民発言禁止法”がするりと可決したようだ。
「サイバーセキュリティー基本法 および情報処理の促進に関する法律の一部を改正する擁立案」、つまり「インターネット監視法」。
「刑事訴訟法等の一部を改正する法律」、つまり、「自由盗聴法」。
「中小企業の新たな事業活動の促進に関する法律の一部を改正する法律案」、つまり、「中小企業監視法」。
つまりこれはすべてを監視下に置き、言論の自由を奪うことを目的とした法案たち。
想像していた通り。


わたしたちは願わずしもひとりひとりが密告者のような位置になる。個人のSNSやメールへ、警察、つまりは政府が自由にログインできるのだ。 別に見られたって平気、だって、料理の写真しかアップしないし、自分の子供の写真しかアップしないし、自分の活動やお店の宣伝しかしないし、なんてわたしたちは無邪気に言う。もちろん政府は個人の食卓の写真や個人レベルの宣伝なんかに興味はないかもしれない。(反対に、小さな子供の写真はかなり興味あり。だから危険。)でも、そういう簡単な問題ではないのだ。例えばわたしが何か政府に抗議運動をするとする。それを政府は面白くないと感じる。そうするとどうするか。わたしと関係するすべての人のSNSなどを探る。思想、行動、場所。わたしはどこにも隠れることができない。自分のSNSがそういうことに加担するということ。家族や友達のすべてを露わにする。個人のエゴにとりつくのは、個人だけではない。

無邪気さや無関心さ、そして無知からわたしたちは目覚めなければならないと思う。世界の出来事はすべてつながっている。起きている出来事に国境なんてない。つながりを知らないのは、無邪気で無知なわたしたちなのだ。

愛しい日々の連続を。


2016年4月17日日曜日

ぐうのエネルギー、祈り

あれだけ食欲がなかったのに、お腹がグウと鳴る音で目が覚める。お腹が空いた。キウイが食べたい。蕎麦が食べたい。胡桃が食べたい。ぐう。味噌汁が飲みたい。クロワッサンにかぶりつきたい。ぐうう。食べたいものはその時によって違う。そんな時体は随分とお喋りなことに気づく。

元気が無い時や体調が悪い時は食べたくなければ無理して食べなくてもいい。食べたくなれば自然と体が欲する。子供の頃、風邪をひいたら「栄養のあるものを食べて寝ていなさい。」と大人たちから言われていたが、東洋医学の考えでは、風邪の時は食事を断つ、もしくは少量に控える方がいいと言われている。食事を断つことで、病気のもとである老廃物、酸毒物を、 これ以上体内でつくらせまいとする。体内の老廃物を燃やし、胃腸を休ませ、消化活動に使われるエネルギーを病気治癒に向ける。なるほど、これを実践してみると、治りが早い。


食べたくなれば無理して食べなくていい。だらだらしたければ思いっきりだらだらしたらいい。体の反応に抵抗しないようにすると、なんだか途端に楽になる。体はすでにいろんなことを知っている。

<人参とセロリがモリモリ食べられるサラダ>
人参 1本 (丸くスライスして1/4の形に切る)
セロリ 1/2本 (みじん切り)
オレンジ 1/2個 (小さくカット)
ミニトマト 5,6個 (1/4にカット)
好きなナッツ(アーモンド、胡桃、ヘーゼルナッツ等)
好きな種(かぼちゃ、ひまわり、亜麻等)
クミンパウダー 好きなだけ
シナモン 少々
塩 しっかりめに少々
胡椒 少々

(ドレッシング)
オリーブオイル 大さじ1
バルサミコ酢 大さじ1
醤油 小さじ1

<お好みで追加>(わたしのお好み)
ドライクランベリー
ザクロ

全部の材料をワシワシ混ぜて、出来上がり。



熊本で大きな地震が起こった。福岡で濃密な時期を過ごしたわたしにとっては九州は第二の故郷。心がぶんぶん揺さぶられる。
原発は「今のところ問題なく運転している。停止する予定はなし。」と発表。わたしたちは何にも学んでいないようだ。
原発をすべて止めても、今と変わらず電気を使用して生活することができることをわたしたちはすでに知っているというのに。


改めて祈りのことを考えた。

ニーバーの祈り(The serenity Prayer)
神よ、
変えることができないことについては平穏にそれを受け入れる恵を。
変えるべきことについてはそれを変えてゆく勇気を。
そして、その二つを見分ける知恵を与えたまえ。

終わってしまうの?
Non, 終わりはしないよ。

愛しい日々の連続を。

2016年4月13日水曜日

下品さの定義

あることがきっかけで、ちょっと”下品さ”について考えてみた。
思ってみれば、わたしがこの世でできるだけ遠ざかりたいなあと思っているもののひとつ、それは”下品なこと”かもしれない。
でも、下品と一言でいっても本当にいろんなことがあるわけで、ちょっとインターネットで探ってみても、いろんな人が下品さについて意見を持っている。


下品さっていったい何か。例えば辞書ではこんな風に記されている。
「品格・品性が劣ること。卑しいこと。またはそのさま。」(デジタル大辞泉)

考えてみると、まず動物には下品さというものは存在しない。
ということはまず、人間にのみ存在すること。

食事作法が悪い人は、下品だと思うことはおそらく一般的だろう。物がまだ口に入っているのに大口開けて話したり笑ったりしたりする人なんかは、世界共通でけっこう一般的に下品と言われることが多いように思う。ただし、国によって食事作法が違うので、下品さはその社会の決まりごとにも関係している。
あと他の人の意見では、お金の使い方とかお金についての話し方、人と知り合うことをすべてビジネスの拡張と考えている、露出が高すぎる服装、他人のプライベートに踏み込みたがる、噂したがる、裏でこそこそと汚いことをする、とかそういうことが一般的に下品なことと言われているようだ。自分の損得しか考えずそれを口に出すことも下品さのひとつだろうか。(地元を悪く言うつもりはないけれど、大阪のおばちゃん(のイメージ)の話し方や振る舞い、服装が下品だと思うことは、おそらく当事者(もしくは大阪人?)以外の共通の認識だろうw)


じゃあわたし個人的にはどうかというと、会話の中での言葉の使い方なんかに下品さを感じてしまうことが多い。中学生の頃(その頃はまだTVを見ていた)、「めちゃめちゃイケてる」というTV番組が流行りだし、瞬く間に「イケてる」という言葉が世間で飛び回った。わたしはこの「イケてる」という言葉がどうしても肌に合わず聞くたびに鳥肌を立てていた。なんて嫌な言葉使いだろうと中学生ながら思っていた。今はもう免疫ができ、「イケてる」と聞いてもなんの体の反応もなくなったが、実は今でもわたしはこの言葉が使えない。「超」とか「ヤバイ」とかも下品な言葉使いだし、流行りだした時の自分の拒否反応も覚えているが、 もう慣れすぎてしまいわたしも時々使ってしまう。そして下品だと思う。
あとは、いい大人なのに幼稚な言葉使いをしている人とか、幼稚な振る舞いが目立つ人なんかは、個人的に「おー、あの人下品だな」と思ってしまう。


礼儀知らずで無作法なことは下品だと言われることは多いが、ただ、これのみが下品さだとは言い切れない。なぜなら、下品さというのは、一言も言葉を発せずとも、何も食べなくても、ただそこに居るだけの立ち振る舞いや服装からも匂うからだ。他人を見る時の視線、笑い方なんかで下品だという判断をくだされることも多い。
おそらく人それぞれが持つ内側にある汚いもの、もしくはエゴを他人や世間に対して見えるように表に出すこと(もしくは隠しれきれないこと)が下品さのキーワードかもしれない。
時と場所、他人の領域なんかを考えず自分のことだけを考えて表に出すことも下品さのひとつ。服装なんかが下品だと言われるのは、これが大きく関係しているだろう。時と場所を考えない奇抜な服装や高い露出は、本人は気づいていないのかもしれないが他人としては、できるだけ見たくないもののひとつで、バシバシその領域を超えてくる。
「わたしは、わたしが、わたしの」が自分の領域を超えて他人のそれに踏み込んでしまっていること。
わたしもSNSを利用しているけれど、そういった意味ではSNSも下品さのひとつと言えるのかもしれない。

他人の領域(物質的にも精神的にも)を知るということは、知性も関係するだろうから、そういう意味で下品さとは知性にも関係するのだろうと考える。
ちなみに、アルコールを多量に摂取している人は普段はそうでもないのに、下品な言動や行動が多くなることが多いのは、アルコールが知性を奪ってしまうからだろうか。わたしもワインが好きで週1、2回飲むけれど、昔は今では考えられないくらいもっと頻繁にもっとたくさんの量を飲んでいた。その時代にわたしがしていたこと、言っていたことと言ったら...!思い返してみるとおおいにわたしは下品だったなあと思うのだw


下品さというものは何か。
なかなか難しいのだけれど、はっきりと言えることはひとつ。下品さというものは、その人以外の周りは感じているけれど、当事者は気づいていないということ。そして、それを本人に伝えるのはよっぽど近しい仲であってもむずかしいということ。

わたしにも下品なところがまだまだあるな、なんてこれを書いていて思い巡らし、改めて反省する。
どんどんどんどん、世界には下品さが蔓延しているように感じるのはわたしだけだろうか。


愛しい日々の連続を♡



2016年4月7日木曜日

SNSで消費するもの

とても面白い人がいる。彼は家を持たず生活に必要なものは車に積み込み、様々な土地を移動しながら生活している。不必要なものを持たない代わりに、膨大な知識と知恵を蓄えている。政治のこと、経済のこと、文学、言語の意味、宗教、芸術、宇宙のこと、様々な国の歴史、ヨガのこと、ドパリュドゥーについて、etc, etc, 話せば話すほど湧き出る泉かと思うほどいろんなことが出てくる。インターネットのまとめ記事やSNSで流れている情報、人から又聞きしただけの情報で知識を構成するのとはまったく次元が違う。読んで調べて疑ってまた調べて疑って時々実践してって、おそらくそれの数珠つなぎで蓄積されているのだろう、大きな木のような知識なのだ。そしてそれをユーモアたっぷりに話すのでまったく飽きない。フランス語なので全部は到底把握しきれていないがそれでも飽きない。そしてその人はある武術を身につけているので、体のこともよく知っている。人の気の流れを整えることもできる。


ところで、SNSで鬱になる人が増えているそうだ。調べてみると様々な研究機関が数年前から研究結果を発表しているが、精神衛生上問題のある人がSNSによって鬱になるというよりは、SNSの持つ特質が人を鬱にならせやすいそうで、誰もに大きな危険性があるということ。研究によって、SNSの利用によって人がもっとも感じる感情は「妬み」であるということが分かったらしい。

長時間使えば使う程、絶望感を感じ、強い孤独感に苛まれ、判断力が低下し、怠け者になり、妬みの感情が爆発し、人生に不満を感じ、結果的に鬱症状が出やすくなりるのだという。ただ閲覧するだけの人よりも頻繁に投稿する人のほうが鬱になる傾向がでやすいらしい。カナダのある心理学者の論文によると、「毎日SNSを2時間以上使っている若者は、心理的苦痛を感じたり自殺したいと思う割合が高い」との調査結果が得られたらしい。ただし、「SNSと精神衛生の関係性は非常に複雑で、『SNSを使っているから精神衛生に問題が起こる』と単純に説明することはできない」とも言っている。


わたしは気楽な性格なのか、例えばFacebookを利用して見て特に嫉妬を感じたことはない。もしかしたら特に重きを置いて頻繁に利用していないからかもしれない。わたしはこのブログの更新を投稿しているのに使うか、あとはたま〜に個人的な実験で写真を載せたりするぐらいで、8年前利用し初めた頃に比べると使い方も全く違うし、あまり興味がなくなっている。だからと行って友達や知り合いの投稿にへ〜、そんなことしてるんだ!なんて興味を持つこともあるし、日本から離れている分、自分の大好きな友達の投稿で近況を知れて嬉しくなることもある。
ただ、わたしは構図や色構成が素敵な写真や独特の雰囲気がある写真を見ることが昔から好きなので、そういう意味でFacebookに投稿されている記事や写真が趣味ではないものが多い。
で、なんとなくinstagramで投稿されている写真を閲覧するようになった。もちろん好きな写真ばかりではないけれど、自分の好きな国や行ったことのない綺麗な場所の写真たちを見るとうっとりする。ベジタリアンなので世界中の国から投稿されている菜食料理のレシピを知るのが楽しくて、自分も写真を撮ることも料理を作るのも好きなので、自由気ままに投稿できるという気軽さであまり深く考えずに楽しんでいた。


ただ...実を言うと妬みや鬱は知らなかったとしても、SNSの他の危険性は随分と前から知っていた。(例えば小さい子供の写真はかなり危険なので顔写真は載せない方がいい、とか、本当に伝えたいことはSNSでは伝えない方がいい、とか。)これらの危険性に関してはいろいろな情報が絡みあっていて紐解いてきちんと伝えないといけないので、今ここでは書かないが、それらを知りながらも適当に利用していた。いい情報をみんなに拡散したいという気持ちもあったが、本当に伝えないといけないことはSNSでは伝わらないことを本当はどこかで知っていた。SNSに投稿した写真は上から下へスクロールされ、どんどん消費される。花の美しさも精神世界も体の仕組みも人との繋がりもすべてビジネスの広告になり消費されていく。自分の気持ちを煩(わずら)わす人の投稿にはフィルターをかけてしまえばいい。簡単に排除ができる。消費されるのはデータだけではないようだ。

少し古いものではあるが面白い記事を見つけた。(http://www.seijo.ac.jp/pdf/faeco/kenkyu/177178/177178abe.pdf 想像する以上に難しい言葉は使われていないし、分かりやすい文章なのでもし時間があれば読んでみたら面白いと思う。)


”ユーザーである消費者の「自己実現」の欲求は,見方を変えれば「ナルシシズム」への欲求とも言うことができる。SNSに限らず,インターネット環境が実現した表現の場は,ユーザーに対して,「自己実現」の欲求の充足を与えるとともに,「ナルシシズム」の欲求の充足も与える。”
そしてわたし的に衝撃的だったのが、中盤あたり(130-132P)に出てくる文章、
”ユーザーは,開かれたコミュニケーションをするという快楽を消費しようとすると同時に,(互いに)広く知られているという「プチ有名人」とでも言うべき存在になろうとする。”という一節。
”プチ有名人”!!きゃあ!言い得て妙!意地悪でそして的を得た、なんて貧乏臭い表現なんだろう!!とおののいてしまった。この言葉が持つ独特の匂いに数秒間思考が停止してしまい(笑)、そして我に返り自分を大いに省みて、そして思う。「プチ有名人」は...ちょっと、いやだ。
マズローも彼の理論でいう”低いレベルの尊敬欲求”(他者からの尊敬、地位への渇望、名声、利権、注目などを得ることによって満たす欲求)にとどまり続けることは危険だと言っている。SNSのセルフィーはそのもっともの例だ。このブログだってそのひとつにすぎない。わたしの大きなエゴだ。


で、ハタと気がついた。SNSで鬱になる人が増えているということは、知らないうちにわたしもそこに加担しているのか!ということ。わたしのSNSのアカウントは特にフォロワーが多いわけではないしわたしが投稿した写真で妬みを買うということも特にないかもしれないけれど、それでもそこの一片になり得るかもしれない。

だからと言って特にアカウントを削除したり利用を完全に止めたりということもしないだろう。うっとり妄想時間は昔から大切にしているので、素敵な写真を見たくなれば見るし、友達の投稿の閲覧もするし、時々投稿だってするだろう。でも知らないうちに何かに加担して、わたしの大切にしている部分を持っていかれないようにしようと思う。
ああ...いつだってエゴは取り付くことを探しているんだなと思う。


くだんのその面白い人といろんな話をする。「いろいろな人が僕に勝手なイメージをつけて何かを期待してくることは本当によくある。僕は宗教家でもないし悟りをひらいているわけでもない。謙虚でもないし、普通の人間なんだよ。ただの変わった年寄りだ。」と笑いながら言う。時々意地悪で辛辣なコメントもたくさんする。「残念だけど偽のアヒムサも受け入れなければならないんだよ」と経験からアドバイスをくれる。そして...その彼の奔放さに振り回されてきた家族の苦しみもわたしは知っている。彼ももちろん聖人君主ではない。

ああ、まだまだ全然足りてない。わたしには知恵も知識も経験もこの人の足元にも及ばない。本を読む。体で感じる。鬱の人を増やす加担をしている場合じゃない。それにもし仮に同じように妬むとするのであればこの知識の深さに嫉妬したい。


その面白い人はわたしにいろんなヒントをくれた。改めて、わたしが向く方向を再認識した。機能的な方向に進めば進むほど、愛おしくなる種類のものたちの方へ。

わたしは文章を書くことで自分をひとつにまとめている。まだまだ内側の作業で、このブログはわたしのれっきとした欲求の塊だ。それを手放せるようになるまではもう少し続けてみようと思う。
夫がわたしに言う。「ちょっとずつ要らないものを外していけばいい。その段階に来たんだと思うよ。で、したいことは続ければいい。」


というわけで長くなったけれど、決してSNSを利用している人自体を悪く言いたいのではない。自分自身を省みて、それから社会の在り方自体に疑いを持っている。
そして...なんといっても、先週あたりからSNSの画面にはありとあらゆる桜が咲き乱れていて、ああ、断然春は日本の方が情緒があるな、なんて、そう、嫉妬しているのだw

愛しい日々の連続を♡



2016年3月30日水曜日

赤の分量



気になるのはあの人の爪。まだ乾いていないとろりとしたものが短く切り揃えられた爪からしたたり落ちそうだ。宝石みたいなザクロの色。昨日は気がつけば一心不乱にクリームを混ぜていた。知らないうちに日が暮れてフランボワーズも桑の実も区別がつかない。灯りをつけて出来上がった赤いクリームと真っ赤に染まった自分の手を見てぎょっとする。手の色は時間がたつほどに黒に変色していく。新居祝いのパーティでパスタなんか振る舞うなんてと自分の恋人の娘に嫌味を言った女性。そういえばあの人の長い爪もこんな色で今にも変色しそうだった。子供の頃飼っていた猫の目は暗闇で赤に光った。暗闇ではその小さな彼の体に何かが宿るんだと信じていた。書道が趣味のような団子ヘアのフランス人の彼氏を連れている、隣の席の中国人のモデル。赤のワンピース一枚。アップした黒髪。むき出しの肩と長い足の黄味がかった肌色。配分がちょうどいい。偽物の赤のソールのハイヒールはそういえばここではあんまり見かけない。前のアパートの大家のマダム、の前の夫が履いていた赤いスリムパンツ。白髪混じりの哲学者風の髪型と合わせると一層にそれは胡散臭さを引き立たせる。フランスでは赤色は女の子ではなく男の子の色。でも年を重ねると赤色は女のものになる。そうか、大人の男が身につける赤は、だから子供のようになるのか。向かいのマダムがすする赤いガスパチョ。若いトマトを手の中で器用にさばく男の手。熟したトマトを鍋の上で潰す女の手。手首に滴り落ちる薄赤い汁。目の前の皿。切り取られた舌、のようなビーツにそっとナイフを入れる。そっと。分量を間違えた批評は悪口になる。分量を間違えると何だって下品になる。口紅を塗り忘れたからといってわざわざ席をたってトイレに行く必要はない。そんな野暮なことをしなくてもトマトを齧るふりをしてテーブルの上のオイルを少しスプーンで唇にふくませればいい。わたしは黒を着て赤を飲む。

愛しい日々の連続を♡

色の旋律
Blue:冬の裾の色
Violet:紫のニュアンス
Entre Rose et Rouge:前髪から宇宙まで
Rainbow:魔女の色彩




2016年3月24日木曜日

魔女の色彩

そろりと鞘にナイフを入れる。ジュワッと滲みでるエキスとともに部屋中にヴァニラが広がる。瓶に液体を注ぎこむ。蓋を閉める寸前、目を閉じて最後のヴァニラを楽しむ。


匂いを嗅いでは摘む。大鍋でぐつぐつさせてみる。
洗って練って何度も何度も、浸して干して何度も何度も、織ってほどいて折って畳んで何度も何度も、丸めて破って何度も何度も、ぐちゃぐちゃにして...って、そんなふうに虹色を作りあげる。
女の人って複雑な生き物だねえ。と言うと、それってほぼ”重言”だねと彼は苦笑する。
返事を返す、頭痛が痛い、今の現状、馬から落馬...女は複雑...なるほど。



体でわかる満月。遠い東の海からかすかに聞こえる音。体の内側が騒ぐ。やっぱりか。産まれてた。宇宙のサイクルに引っ張られた子。何かの終わりと豊かなサイクルが始まるのは同じ変化の中にある。それから同時にパリから連絡が来る。ピエールアルディのショーウィンドウの前でアイスクリームを食べている2歳。またパリジェンヌがひとり増えたようだ。それにしてもシンクロし合う、女たちのこの繋がりはいったいなんだろう。


昔見た景色をスプーンで掬う。月の光を瓶に入れる。
美しさは、隙のない完璧さの上に存在するのではない。しかしそれは完璧に近いほどに満たされたことだ。



”月の香りを感じたり、黒色の官能を選んだり、揺れるスカートで現実を少し覆って、ひとりにやりと匂いに潜む秘密の記憶を楽しむ。アーモンドを少し齧る。言い訳の赤色を愛する指でぬぐってもらう。お湯の中に体を沈めて、耳までそっと入れる。目を閉じる。ろうそくの光が滲む水の色を味わう。揺れるリズムに身を委ねる。” 


愛しい日々の連続を♡

色の旋律
Blue:冬の裾の色
Violet:紫のニュアンス
Entre Rose et Rouge:前髪から宇宙まで





2016年3月17日木曜日

扉の外側と内側

初めてわたしがフランスに来たのは、アパレル業界で働いていた時の仕事のパリ出張だった。初めてのパリ、ショー会場からショー会場へ、展示会場から展示会場へ歩いた。フランスは道沿いに建物が並び、建物の入り口となる扉が道に面してずらりと並んでいる。建物の扉の横の壁にはインターフォンが並んでいて、尋ねる宛先のボタンを押して扉のロックを開けてもらうか、もしくは扉の横についているデジコードでロックを解除したり、タッチ式の鍵で入る仕組みになっている。デジコードはもちろんそこの住民しか知らない。そして初めてのパリ、社長の後ろをただひたすら歩く途中、何十、いや何百という建物の扉を通りすぎ、そのたびに扉の迫力とひとつとして同じものがないのではないかというくらい多種多様なデザインに魅せられていた。でも個人の小さなメゾンでない限り、展示会場などがそういった扉の建物の中にあることはあまりなく、どうやって入るのかさえ知らない。その頃のわたしにとってはフランスの道沿いに並ぶ扉の中は未知の世界だった。


そう考えてみれば、わたしはその頃の未知の世界の扉を開けている。
その1年後にはパリで暮らし始め、そして今は南仏でと、その扉の中の住人になって生活しているのだから考えてみればなんだか不思議に思えてくる。


実は最近いろんなことを臆病に感じている自分に気づくようになっていた。やりたいことがたくさんあるのになぜか土壇場になって億劫になったり、うまく集中できなかったり。わたしはこんなにも臆病だったけなと昔の自分を思い出しては、もうあんな風にいろんなことに飛び込めなくなっているのだろうかとちょっと不安になることもあった。最初のうちはその理由がわからなかったから、なんでできないんだろう、なんで不安に感じるんだろう、年をとったのかと悶々としていて、ある時夫にそれを話した。こんなにたくさん時間があるのにもったいない、でも臆病になっていてなんか億劫に感じてできない、でも時間があるのにって焦って堂々めぐりで悶々としてしまうんだと。そう話すと彼は、話てくれてよかったと笑いながらこう答えた。


君は今までずっと外の方を向いて、これをやりたい、あれをやりたい、とやってきた。福岡でもいろんなことやってたよね、ほんとによく覚えてる。でも、実際のところ君はずっと自分の心のまだ修復できていないものをどうにかやりくりしながら外を向いてがんばってただろうけど、自分の内側の小さな頃傷ついてしまった部分とか、それをかばうために自分で作って組み込んできた長年の心の防御反応とか、そういうものに向き合う時間を作れてこなかった。でもこの半年で君はそれに向き合おうとしているし、その成果はすごい。その時間ってすごく大切で、残念ながらそれに気づかない人もたくさんいるんだよ。自分の内と向き合うって、君は十分知っていると思うけど時には吐きたくなるほどしんどい気持ちになることもあるし、時間がある今しかできないし、年をとればとるほどそれは簡単ではなくなってくる。だから僕としては正反対の気持ちだよ、君はすごくいい時間を過ごしているんだと思う。君のママとおばあちゃんから、フランスに来てから表情がすごく柔らかく優しくなってるってこの間スカイプで言われてたよね。それすごくわかるよ。焦る気持ちはわかるけど、その必要は本当は全然ないんだよ。


「それに、そういう自分の内側に向き合わない限り、真にやりたいと思っていることは本当の意味ではできないと思うよ。」と、彼は最後にピリリと付け加えた。


昨日フランスで初めて医者にかかった。その日は突然冬に舞い戻ったように気温がぐんと下がり、1日中雨と風が強い日だった。フランスで医者なんてここで暮らしていくにはもちろんこれからさけては通れないことなんだけど、うまく説明できるかの緊張と面倒くさいのと天気の悪さとで憂鬱な気持ちはマックスだった。予約をしてメモした住所を尋ね、どんと構えた鉄とガラスの高くて重い扉をおそるおそる開けて建物の中に入る。一歩入って扉がパタリと閉まる。すると突然、なぜだかわからないが、不思議とすっと気持ちが晴れた。その建物の小さなエントランスに入った瞬間。そこは外の景色とは打って変わって光に溢れていた。電気の照明で光を作っているというよりは、高い天井と扉のガラスから外からの光を取り込めるようなデザインになっている。そのエントランスをゆっくり歩き、階段を上り始めた頃には憂鬱や緊張はその光に吸い込まれるようになくなって、反対になんだか初めてのことをするのがワクワクしてきたのだ。(今思えば、さぞかし受付の女性は病気のくせにやけにニヤついてるやつだと思っただろうw)


でもなぜあのエントランスの光のせいであんなに気持ちが急に楽になったのかは今もわからない。
扉の存在自体を知らない時期もあるし、その扉の前をずんずん通りすぎる時期もあるし、扉の開け方を知る時期もあって、その内側に入る時期もあって、それぞれそのタイミングがあるんだな、なんて、エントランスに立ち、扉の鉄とガラスの模様の間からのぞく外の景色を見てふと思った。

気がついたら扉の内側にいた。そこから外側の景色が見える。全然違う。

愛しい日々の連続を♡